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演劇批評、それ自体(仮) [2.兼ベルクソニスムの一つの紹介-潜勢力/創造の源泉について]

前回の話を踏まえまして、重要な…というか何ですかねあれですね、
卒論での議論の一つの核でもあって、このブログでも言葉はちょいちょい出してきて、
自分の中ではかなりウェイトを占めているのだけど詳述した事はなかった
「潜勢力」についての話をしようと思います。


大学3年の終わりに、『アルトーという潜勢力』という文章を卒論の前段階として書きました。
前回も話に出した『現勢化するアルトー』は勿論それを承けた文章でした。
卒論ではアルトーは使わなかったのだけど、ベルクソン-ドゥルーズを論じる際に欠く事の出来ない概念として用いました。

潜勢力。
語弊はありますが、普段は認識される事のない、現働的な世界の背後に脈々と流れている力とでも言いましょうか。
ベルクソン『物質と記憶』の議論で言えば、「記憶」がそれに当たります。
我々が諸事物に相対する時、例えばほぼ無意識に接する事もあるでしょう。具体的な過去の経験を思い出して、その反省を踏まえて異なった方法で対象に向かう事もあるでしょう。恐らくその仕方は様々です。
どの程度、どの辺りの過去を圧縮して現在に生かすか。もしくは、‘殆ど’過去には依拠せず、その場その場で動物的に対応するか。
それは例えば体調や諸状況に左右されるでしょう。勿論これまでその人がどんな経験をしてきたかにも拠ると思います。
体調や状況もそれを経験している現在の次の瞬間には過去になっていますから、全ては過去の全体によって決められていると言えるでしょう。これは能動的に決定しているというよりも、偶然によって作用していると言わざるを得ません。

ここではまさに、過去の全体、記憶一般が潜勢力として働いている訳です。
潜勢力として機能している記憶の中から、「無限」から、偶然的に行為が‘現勢化’する訳で御座います。

ベルクソンの次の著作『創造的進化』では議論が飛躍的に拡張し、宇宙全体が純粋な潜勢力であるという話になります。
生物の進化は、宇宙、あるいは世界という潜勢力が現働化したものであると。まぁこちらの議論も、非常にスリリングなものでありますが、あまりコンパクトにまとめられる自信がないので割愛します。気になったら読んでみてください


さて、この潜勢力。言ってみれば創造性の源泉です。(こういう言い回しでもかなり概念を縮小化してしまっている事になりますが、まぁ演劇/批評に繋げる為なので便宜的に。)
潜勢力が、もし、(もし、)なければ。創造などという事はあり得ません。
例えば動物の事を考えてみます。彼らにも勿論記憶はあります。「条件付け」なんて実験がありました、これを見ても彼らは過去の記憶を辿って現在に生かすという事を行っていると言えるでしょう。しかしそれでも、現在に近い記憶のみを現働化させているに過ぎません。所謂「本能的な行動」です。過去に抱いた遠いイメージを想起するという事はないでしょう。あくまで現在に近い記憶だけを用いています。5年前旅行に連れて行ってもらった時の知覚はほぼ持っていないかの様に生きているでしょう。生きるのに必要ないからです。現在に近いイメージだけを有していれば、彼らには何の問題もない訳です。ここに創造性を見ることは難しいでしょう。(勿論程度の問題、とも言えるかもしれません。例えば巣を創るのはどうか。上手い事散らばっている材料を拾い集めて独自の巣を創ってしまう。まぁ少し難しいですが、「巣を創る」という行為を更に発展させる事は出来ないという点で、人間の創造性とは質が異なると言えるでしょう。反論はあり得ますが。)

幸か不幸か人間はそういう訳にはいかない。嫌な記憶でも想起せざるを得ないし、またそうでなければ他者との関係は成り立たないでしょう。そしてそれ故に、人間は創造力をも持ち合わせているのです。


創造力は必要か、これもまた難しい問題だと思います。自分ひとりで、木の実を取って食べていくだけであれば、特に必要もないと言えるでしょう。しかしここにもう一人、二人と他者が現れた際には事情が変わります。
彼らと何とか折り合いをつけていかなければなりませんし、そうすると例えば「制度」や「道具(言語等を含む)」や「概念」を創る事が必要になるでしょう。制度や道具はそれ自体で完結せず、必ず何かしらのエラーを抱える事になりますから、更にそれを無限に改変していく力が要る事になると思います。
(この事はある程度前提としてこれから語る事になりますが、100%自信を持って言える事ではりません。ここでは詳述しませんが、疑問を抱いた方はコメントでなり直接なり声をかけていただけると有難いです。)

しかし。我々はどうしたって楽に生きたい。できる事なら、他者との衝突なく、何も考えずに食べていければそれが一番良い。それ故に、なるべく考えない、考えない方へ向いていく訳です。この辺りで前回の話とつながってくるのですが、「考えないでその場を生きる」という習慣が身に付き、それを第一義に捉えると、「理論なんて要らない」という発想に近づいていく事になるでしょう。
でもそれでは社会全体は上手くいかない訳です。我々は常に創造力とその源泉を保たなければならないのです。
ここからの議論の展開は僕個人の考えになりますが、まさしく前回の話に出てきた「哲学における理論」はそれを担保するモノとして立ち現われるでしょう。
哲学の理論は、潜勢力そのものです。勿論使われ方は様々で、誤読されたり悪用されたりするでしょう。
ですが、それも現働化の一様態であって、大きく見ればやはり創造力の源泉となっているでしょう。

アルトーもまさしく、極めて強度の高い潜勢力であると言えると思います。
それ自体では殆ど何を言っているのか分からない。それでも、彼を基盤として様々な優れた演出家が登場し、作品が生まれ、あるいは哲学の議論が展開された/ている訳です。勿論、それらの作品や議論は再び潜勢力として機能していく事になるでしょう。


大体今回の主張はこんなところです。
創造力の源泉=潜勢力を確保する事。哲学もそうですが、芸術も勿論その一翼を担っていると言えます。
昔友人が「芸術がなくなったら世界は滅ぶと思う」と言っていましたが、今ではあながち間違っていないなと思います。

さてここから問題になるのは、/ベルクソン(あるいはそれを承けて議論を展開させたドゥルーズ)が問題視しているのは、この潜勢力にも程度がある、という事です。先ほど強度という言葉を使いましたが、「強度の高い≒良い?」潜勢力、「強度の低い≒悪い?」潜勢力というものが存在するだろう、という事です。
我々一人ひとりだって潜勢力それ自体であるし、勿論動物も、一応、そう。あるいはもっと言ってしまえば植物、有機物、無機物にだってあるかもしれないという話になっていくでしょう、ラディカルに考えると。
諸理論や諸作品もそれぞれ潜勢力であると言う事が出来ます。人間という潜勢力から生まれた(現勢化した)作品がまた潜勢力であり得るというのだから、程度の問題に還元せざるを得ません。
ではこの強度を上げ(下げ)ているものは何なのか、という事を突き止めなくてはなりません。

ここはまぁ今後の課題としているところで、まだハッキリした事は言えないのですが、
この連載?の中で少しでも触れられればと考えております。
とりあえず、案の定長くなってしまったので、一旦この辺で。
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テーマ : 哲学
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演劇批評、それ自体(仮) [1.導入-(哲学における)理論について]

お久しぶりで御座います、ここのところかなり呆けておりまして、
なかなかまとまった文章も書く気が起きていなかったのですが
思うところは多くありますありました故、少しずつ記していこうかと思う次第で御座います。

【あらすじ】諸々あって大学院に進学できなくなった(!?)kenkenは、お世話になっていたゼミの先生のところに相談をしにいくのであった!

そこで、理論とは、みたいな話を軽くしてもらったのです。
簡単に言えば理論とは、諸々の問題解決の為に誰もが用い得るモノであると。
成程現代の我々は、多くの場面でイデアという概念を肯定的あるいは批判的に用いて諸問題に相対する訳で御座います。もう少し言えば、イデアの概念を知っている事で見えてくる問題系もあるだろう、という事ですかね。

ベルクソンは、問いは提出されたと同時に解決されたも同然なのであって、正しい問いを提出する事が重要なのだと述べております。(そして伝統的な哲学は問いの立て方を誤っていると批判する訳です。)
恐らく、新たな理論の構築は新たな問題の発見につながり、「解決」へつながるでしょう。
資本主義を筆頭に様々な制度は混乱し、これまで成立していた多くの‘関係’が破綻し始めている現代においては、新たな理論が要るだろう、というのが先生の見解でした。カッコイイ!

また、様々なジャンルで「理論」の存在が言われますが、哲学の理論が他と違うのは、その理論が向かう対象が定まっていない、あるいは対象を定める事それ自体の理論でもあると。この思考はラディカルであらざるを得ず、(そうでなければ今までの議論の枠内でただ同じ言説を繰り返している事になりますから)後世にまで残る様な理論構築というのはかなりヤバいものであると言えるでしょう。
哲学というのは全ての学問の源流ですから、この様に哲学の極限まで練磨された議論が他の諸理論の基を定める事になる、と言えばおさまりが良いでしょうか。


で。
一般的には、こんな理論に意味なんかないと言われる訳です、
そんな事やってたって自分の、誰かの生活が良くなる訳でもないし、そんな事している暇があったら労働をなさい!と言われてしまう訳です。
だがちょっと待って欲しい。
そんなに単純な話でもない訳です、と思っています。今の、僕は。
その説明をする為にはー… いったんここで切って、次の記事で書こうかと思います その話題だけで長くなりそうだ


本当は(演劇)批評について書きたいんです、今後の、自らの方向性を確認する為にも。
昨年一つ劇評を書いたのですが、それを巡って色んな事を言われたんで。それへの応答も含めて。
が、そこへ到達するには少し長くなりそうです、まぁ、おつきあい頂けるのであれば宜しくお願い致しますといったところ。
最後までちゃんとした構想がある訳ではないので上手くいかないかもしれませんが尽力します。
とりあえず今回はこの辺で。

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「素朴」について(言語による分節化と即自的様態)

お久しぶりです。いつの間にか一か月半以上も空いてしまい、気付いたら新年を迎えておりました。
卒論でてんてこ舞いだったこともありますが、ノートPCがイカレてしまい、2~30分で強制終了してしまう様な状況だったのでブログ更新がままならなかったということが大きいです。(卒論はネットにつながっていないデスクトップで書いておりました)
が、ノートPCを先日新調したのでこれからはりきって更新しようかなと思います。twitterでは書ききれないことも多いのでねやはり。
とりあえずは肩慣らし、くらいの感じで行きたいと思います。



最近ちょくちょく「素朴」という言葉を目にします耳にします、

「素朴にそう思う」
「素朴に感動した」

ややこしいこと抜きにして、単純に。混じり気なしに。思ったり感動したりするのでしょう。
成程こういう感覚は非常に大切だと思われます。諸メディア、に媒介され、資本に回収された欲望を、自然なところに開放してやること。勿論ここでいう「素朴」がどこまで本当に素朴なのかは疑問が残るところですが、一つの目指すべき傾向として、この「素朴」を挙げることはできるでしょうし、それは間違ってもいないでしょう。

しかし僕はそういえば。素朴という言葉を書いたことも発声したこともなかった、これまで恐らく。
「純粋に」とか「単純に」とか、似たような言葉は使っても「素朴に」という語彙は僕のうちには存在しなかった。
つまり、「素朴」という言葉による分節化は行われていなかった訳でございます。

どういうことかと言えばー…
例えば、「辛(から)い」という言葉を獲得するまで、今我々が感じている「辛い」という感覚は、「痛い」などといった言葉で表象されていた訳です。「辛い」と「痛い」の区別はなかった訳です。「辛い」を知らないんだから。
「辛い」という言葉が生まれて初めて、「辛い」と「痛い」の感じ分け、分節化、がなされる。
我々の知覚、感覚、認識は、言語による分節化を基にして行われている部分が大きい。「異なる感覚があるから異なる単語が生まれる」という一般的な見解とは反対に、です。

で。僕は、「素朴」という単語を有していなかった。
僕の感覚からすれば、「素朴」じゃない「思う」は「考える」だし、「素朴」じゃない「感動」は既に「感動」じゃない。思ったり感動したりする時には、それは「素朴」以外ではあり得ないのです。

しかしこの「素朴」という領域。サルトルのタームを用いれば即自的様態と言えるのだろうなぁなどと考えておりました。素朴とはまさに、素朴以外のものではありえないようなものなのであって、到達しようとする度に手からすり抜ける様なもの。もう少し言えば、「これは素朴だ」という形容をする度に、それは既に素朴ではなくなるのです。
「素朴」、と言う時には、「素朴でないもの」が常に前提されている。ややこしい言い方をすれば、「素朴」とは「素朴ではないものではないもの」としか規定され得ず、否定的なものとして表象されるでしょう。それは既に素朴ではない。言語を介しては決してとらえることのできない領域、これが即自です。

「素朴」という言葉を使う人も、即自的に「素朴」な体験をしたのでしょう。しかし、それを表現する手段を持たないが故に(表現すると同時に素朴でなくなってしまうが故に)、苦し紛れに?、最後の手段として「素朴」という言葉を用いているのでしょう。
しかし、あまりにも「素朴」という言葉が前景化しすぎてしまうと、本当に即自的な「素朴」が失われてしまうのではないか、という危惧もある訳で御座います。
「素朴」を生きるのであれば、「素朴」という言葉から離れなければならない。何というジレンマ。でもまぁ、そういうことです。

僕も今回の記事で一生分の「素朴」という言葉を使いました笑、もうこの言葉から逃れることはできないでしょう、が。即自的な素朴、という身体感覚を失わない様に、日々感覚を練磨させなければならない。本当に必要なのはそういうところでしょう。
単に言語を捨て、動物的な生を生きようとすることではなく。言語による分節化を引き受けた上で、それと常に対峙していくこと。「社会」の中で生きることを考えるのであれば、それより他に道はない様に思われます。



社会、という言葉を使ってしまった。極めて大きな問題です。これについても改めて書かなければなりませんが、とりあえず(肩慣らしのつもりが案の定)長くなってしまったのでここまでにしておきます。また近々。

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卒論概要その他

諸々書きたい事はあるのだけど、絶望的に時間がないので、絶望的に卒論がヤバいので、
卒論構想だけ若干(若干)記して、おこうと思います。

ドゥルーズはベルクソン哲学に大きな影響を受けている事は言うまでもないが、『道徳と宗教の二源泉』で語られる超越の領域については捨象してしまう。あくまで『創造的進化』まででなされていた議論を基に、内在の哲学を貫き通す。
しかし『創造的進化』で提出されたエラン・ヴィタルの概念は、超越の領域を根拠にせざるを得ないのではないだろうか。故に『創造的進化』から25年もの歳を経てたどり着いたのが『二源泉』における超越の議論だったのではないか。

一方サルトルはベルクソンが「否定」の観念を否定的に見る事に対し反旗を翻す。そして、「無」の領域に大きな位置を与える事でそれを自我の超越の契機とする。
しかし、このサルトルの問題圏は最終的にベルクソンが出した結論と密接な関係を持つのではないか?
エラン・ヴィタルを取り巻く議論を押し進めると、ベルクソニズムを徹底すると、サルトルに結節するのではないだろうか。そしてドゥルーズが展開する内在の哲学も、超越の領域を無視しては語る事ができないのではないだろうか。

今回の論文は、フーコーが「主体の死」を宣言して以降、哲学的には不在だった主体の概念を、
上記の様な超越的内在の領域を見る事で復権させる事ができないだろうかという試みである。



主な使用文献
ナンシー編
『主体の後に誰が来るのか?』

フーコー
『言葉と物』

アガンベン
『思考の潜勢力』

ドゥルーズ
『無人島1953-1968』「ベルクソンにおける差異の概念」
『狂人二つの体制1983-1995』「内在――ひとつの生……」
『差異と反復』

サルトル
『自我の超越 情動論素描』
『存在と無』

ベルクソン
『意識に直接与えられたものについての試論』
『物質と記憶』
『創造的進化』
『道徳と宗教の二源泉』




構想としては個人的には結構スッキリ落とし込めいて…まぁ書けたら気持ち良さそうすね。
しかし本当に、最近何でしょう、演劇周りの勉強やらイベントへの参加やらでかなり時間を取られておりまして、
卒論に全く打ちこめていなかった。提出まで三週間ですがいやはやどこまで出来るのか
まぁ提出後も諸々書きなおしたりはするつもりですが、それを安牌にして正式な文書としては適当なのが残るとか生き恥ですからまぁ死ぬ気でやってみます。
(ドゥルーズの時間の総合とか、潜勢力/可能性の問題にも言及するつもりだけど、それは一応…あまりにも酷いものではあっても一応、去年研究したものがあるのでそいつを下敷きにすれば何とかなるでしょうと思いたい)


とりあえずそんなところです、。

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演劇に関する断片的思考(twitterからの転載)と再びtwitterについて

脳裏に何かよぎった時、twitterにちょいちょい記しておりました、
それは哲学関係の事であったり内省であったりしたのだけど

演劇ないし身体に関する諸々をまとめておこうと思います、劇評含む。断片的な思考を集積した文章がどうなるのか、僕が確認したいというのもあるので、。
(改行しているところがツイートの切れ目です。)



拾い集めた散漫な思考をある程度凝集させる際、ここ一年くらいは歩きながら踊りながらそれを行っている。言葉とイメージの連接は身体感覚を伴いながらの方が良い、気がしている。こういう時間は間違いなく必要だ、しかし夜の公園でしか実行できないというのは悲しい事す。
もっと歌って踊れる場所が必要だ、流石に電車の中で皆で踊ってたら大変な事になるけど、現状ではどう考えたって少なすぎる。
発散、とは違うのだけどね。が、日常では踊らせてもらえない社会にあっては、踊れる場(カラオケとか演劇の現場とか「ワールドカップ」とか)が発散の場になってしまうのは仕方ないかも。
勿論立ち止まって考えるという事も必要だ、ああ立ち止まるという事も踊りなのだ、今気付いた。
「休符も歌う」という事は理解していたのに。「休止も踊り」という事に気付くのが遅すぎた。
日々発見である
どうあれtwitterは踊りにはならんな、思考も身体も中断されてしまう、つぶやくにしてももう少しやり方を考えんと。
[9/20深夜、近所の公園から]

『長短調』、観てまいりました。身近め席、の感想ですが…芝居自体、あるいは観劇の形式を云々しても最終的には音楽と身体のディオニュソス的表現でごり押しするのかぁ、という印象であった。別にあの様なカタルシスは要らないんじゃないかなぁ、などと。
舞台の上にライブハウスを作ってしまったので、そこにかっちり当てはまる身体はなかった(強いて言えばDJ兼サックスの大谷さんくらい)。自らの土俵で、ラップやオペラ専門の人が「演劇」を無視して自らの表現を遂行する方がどうしても強度がある様に見えた。
ニーナだけはナチュラルに舞台上にいたので一番心地よく見れたのだけど、終盤演劇的な発話をするところではやはり奇妙な違和感があった。
演劇の不安定性みたいなところを最近は推したいところなのだけど、『長短調』の不安定さは・・・構造の甘さみたいなところに起因している気がしてあまり肯定できない。ただ特殊な空間であったことは間違いなくさまざまな特殊な身体が混在していた、という意味では面白かったかしら
[10/2 中野成樹演出、『長単調(または眺め身近め)』観劇後]

「グローバルな記号的秩序における問題は、文化が実践から切り離されてしまったことである。(...)この文脈でさらに悪いのはポストモダン化である。つまりそこで何が起こるかといえば、文化自体が蓄積の論理に服するようになるのである。」スコット・ラッシュ『情報批判論』
平田オリザまわりの演劇改革やカルスタに疑問を抱くのはまさにこの点において、だ。「文化」を資本主義における新たな価値基準として立てようとしているだけだ、状況は変わらないどころか諸「権力」への対抗手段を狭めてしまうだけでしょう。
「文化」は打ち立てるものではなく内在しているハズである、個人にあるいは共同体に。故、それは構築すべきもの、ではなく抑圧から解放されるべきもの、と捉える方が適切である様に思う。
文化の問題に言及するにもやはり時間/イメージの議論は要るな、卒論はベルクソン-ドゥルーズ系列を中心にした時間論ですが今後の諸々の思索の基盤となる良いテーマだと自分でも思う(やってる人は少なくないけど多分)
演劇の分野ではまともに(/まともな)哲学が語られていないのです、可視的な権力に対抗すべくフーコーが引用されるとか、その程度。しゃーないから僕がパイオニアになる、くらいの気概を持っている
[10/11 自宅にて、ゼミの課題本を読みながら]

楽しく生きる事が目的ではありません、そんな事は目的にしなくても達成可能なんだ、僕にとっては(勿論、少しは贅沢できるお金さえあればという事だけど)。
余裕があるからこそ持てる思考だという事なのだけど。学問のせいで余裕がなくなるのはオカシイんじゃないだろうかという気もする。病気味だと後ろめたくなる。
身体的余裕、も前提条件すね、歳とって節々が痛みだしたらどんな思考の変化があるのかしら
生きてなンぼ、元気でなンぼ、の思想を進んでいます。僕がベルクソンに傾注するのはその辺が大きいかも知らん(彼は「生の躍動」は強調しても、「死」は全く語らなかった)
「正常な」人間をしか語れないヌルい思考ですよなぁ、アルトーに惚れたりフーコーに感化されたりしても「正常な」立場からしか云々言えないんだ、僕は
小泉義之 @sentanken は数少ない誠実な思考者の一人だわ
(以下、@sentankenへのリツイート)
(2/8)超越vs開闢とではなく超越≒開闢と受け止める限りで、内在の効果としての超越、超越の効果としての内在、そのロジックはわかる。となると、今度はむしろ、内在論が謎めいてくる。そこは上野修=スピノザの仕事ということで…。
(3/8)『〈私〉の哲学 を哲学する』全体の思考は、デカルトでは第三省察に相当する(第二省察に、ではない)。そこには、超越-開闢-内在という、私⇔私でないもの⇔どの私でも(誰でも)という思考の運動がある。
(5/8)上野修セクションへの副次的メモ:開闢(開かれ)は、「私」語りと必然的に結合する(?)。となると、動物は? となる。アガンベン、とメモっておく。
[10/28 風邪をひいて若干ダルく、ナーバスになっていた時の思考]

身体から震える様な作品に最近出会っていない、観念のレベルでならいざ知らず。(『ジャパニーズ・スリーピング』は評価が難しい、なんせ眠かったし笑)飴屋法水もやはりピンと来なかった。明快すぎる、んだよ、困惑させるという構造も含め。
物に宿る歴史と、それに触発されて引き起こされる内的ドラマ。いやがおうでも感得せざるをえない時/空間を媒介にそれらが現出する訳だけど…そんなもの演劇の形態を取らずとも溢れているじゃあないか。
演劇的インスタレーションとしても、前に高山明が図書館でやってたやつの方が出来が良かった様に思う。ただまぁ、飴屋法水個人と喋るのは絶対面白い、ハズ。それは作品から滲み出ていた。かしら。
[11/10 飴屋法水『わたしのすがた』体験後]

今年のF/Tにおける「演劇を脱いだ」作品への違和感は…諸制度に従属した人達へのある種の啓蒙が垣間見える、ところに存する。そして作品の構造上、思考する「間」が必然的に与えられ、その分純粋に造形的な美しさに相対する事が出来ないという。後者は僕の問題でもある。
しかし演劇作品、として提示されたらメタの視点を取らざるを得ないじゃあないか。そうでなければもう少し純粋に楽しめたかも知れない。あえてこれも演劇だ、と宣言する事に意味がないとは言わないが…
批判的思考を醸成するという意味では成功しているのかも知らんが、(今の)僕は演劇にそれを求めてはいないす、とりあえず三浦基と勅使川原三郎に期待。11月20と27日に観に行きます。
[11/11 『わたしのすがた』に関する高評価togetterを見、再び作品に思いをめぐらせた時のもの 於サイゼリア]




うーん、こうして見ると意外とまとまった事書いてるな、連投だけを集めて載せてみたんで当たり前っちゃ当たり前だけど、携帯で書く時なんかはツイート間で10~20分あいたりする事もある。
9/20のツイートでも書いてるけど、つぶやいている自分を内省するとどうにも断片的で違和感のある表出行為である、と思うのだけど、表出されたものだけ見てみるとそうでもないっちゅう。
書く主体と書かれた客体に齟齬が生じている、いや、どんな媒体に書いてもそうなんだけど、それが顕著であるという。少し、やはり恐怖は覚える。恐怖は覚えるんですよね。齟齬が生じた事に無自覚になるのがね。
これもう少し考えてみなきゃならん問題だとは思うのだけど、更に長くなってしまうので別の機会に。
転載した演劇に関する文章についても言及したい事がいくつかあるので、それもまた追々。

テーマ : 演劇
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プロフィール

kenken

Author:kenken
ベルクソン、フランス現象学辺りから時間/イメージ論にアプローチしております。
哲学をする、事は演劇をする事であり、演劇研究は哲学でしかあり得ないという考えの下に、両者の関係をより精緻に見ていきたいという所存で御座います。
いずれ演出、俳優業も再開したいなぁ、などと!


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