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演劇に関する断片的思考(twitterからの転載)と再びtwitterについて

脳裏に何かよぎった時、twitterにちょいちょい記しておりました、
それは哲学関係の事であったり内省であったりしたのだけど

演劇ないし身体に関する諸々をまとめておこうと思います、劇評含む。断片的な思考を集積した文章がどうなるのか、僕が確認したいというのもあるので、。
(改行しているところがツイートの切れ目です。)



拾い集めた散漫な思考をある程度凝集させる際、ここ一年くらいは歩きながら踊りながらそれを行っている。言葉とイメージの連接は身体感覚を伴いながらの方が良い、気がしている。こういう時間は間違いなく必要だ、しかし夜の公園でしか実行できないというのは悲しい事す。
もっと歌って踊れる場所が必要だ、流石に電車の中で皆で踊ってたら大変な事になるけど、現状ではどう考えたって少なすぎる。
発散、とは違うのだけどね。が、日常では踊らせてもらえない社会にあっては、踊れる場(カラオケとか演劇の現場とか「ワールドカップ」とか)が発散の場になってしまうのは仕方ないかも。
勿論立ち止まって考えるという事も必要だ、ああ立ち止まるという事も踊りなのだ、今気付いた。
「休符も歌う」という事は理解していたのに。「休止も踊り」という事に気付くのが遅すぎた。
日々発見である
どうあれtwitterは踊りにはならんな、思考も身体も中断されてしまう、つぶやくにしてももう少しやり方を考えんと。
[9/20深夜、近所の公園から]

『長短調』、観てまいりました。身近め席、の感想ですが…芝居自体、あるいは観劇の形式を云々しても最終的には音楽と身体のディオニュソス的表現でごり押しするのかぁ、という印象であった。別にあの様なカタルシスは要らないんじゃないかなぁ、などと。
舞台の上にライブハウスを作ってしまったので、そこにかっちり当てはまる身体はなかった(強いて言えばDJ兼サックスの大谷さんくらい)。自らの土俵で、ラップやオペラ専門の人が「演劇」を無視して自らの表現を遂行する方がどうしても強度がある様に見えた。
ニーナだけはナチュラルに舞台上にいたので一番心地よく見れたのだけど、終盤演劇的な発話をするところではやはり奇妙な違和感があった。
演劇の不安定性みたいなところを最近は推したいところなのだけど、『長短調』の不安定さは・・・構造の甘さみたいなところに起因している気がしてあまり肯定できない。ただ特殊な空間であったことは間違いなくさまざまな特殊な身体が混在していた、という意味では面白かったかしら
[10/2 中野成樹演出、『長単調(または眺め身近め)』観劇後]

「グローバルな記号的秩序における問題は、文化が実践から切り離されてしまったことである。(...)この文脈でさらに悪いのはポストモダン化である。つまりそこで何が起こるかといえば、文化自体が蓄積の論理に服するようになるのである。」スコット・ラッシュ『情報批判論』
平田オリザまわりの演劇改革やカルスタに疑問を抱くのはまさにこの点において、だ。「文化」を資本主義における新たな価値基準として立てようとしているだけだ、状況は変わらないどころか諸「権力」への対抗手段を狭めてしまうだけでしょう。
「文化」は打ち立てるものではなく内在しているハズである、個人にあるいは共同体に。故、それは構築すべきもの、ではなく抑圧から解放されるべきもの、と捉える方が適切である様に思う。
文化の問題に言及するにもやはり時間/イメージの議論は要るな、卒論はベルクソン-ドゥルーズ系列を中心にした時間論ですが今後の諸々の思索の基盤となる良いテーマだと自分でも思う(やってる人は少なくないけど多分)
演劇の分野ではまともに(/まともな)哲学が語られていないのです、可視的な権力に対抗すべくフーコーが引用されるとか、その程度。しゃーないから僕がパイオニアになる、くらいの気概を持っている
[10/11 自宅にて、ゼミの課題本を読みながら]

楽しく生きる事が目的ではありません、そんな事は目的にしなくても達成可能なんだ、僕にとっては(勿論、少しは贅沢できるお金さえあればという事だけど)。
余裕があるからこそ持てる思考だという事なのだけど。学問のせいで余裕がなくなるのはオカシイんじゃないだろうかという気もする。病気味だと後ろめたくなる。
身体的余裕、も前提条件すね、歳とって節々が痛みだしたらどんな思考の変化があるのかしら
生きてなンぼ、元気でなンぼ、の思想を進んでいます。僕がベルクソンに傾注するのはその辺が大きいかも知らん(彼は「生の躍動」は強調しても、「死」は全く語らなかった)
「正常な」人間をしか語れないヌルい思考ですよなぁ、アルトーに惚れたりフーコーに感化されたりしても「正常な」立場からしか云々言えないんだ、僕は
小泉義之 @sentanken は数少ない誠実な思考者の一人だわ
(以下、@sentankenへのリツイート)
(2/8)超越vs開闢とではなく超越≒開闢と受け止める限りで、内在の効果としての超越、超越の効果としての内在、そのロジックはわかる。となると、今度はむしろ、内在論が謎めいてくる。そこは上野修=スピノザの仕事ということで…。
(3/8)『〈私〉の哲学 を哲学する』全体の思考は、デカルトでは第三省察に相当する(第二省察に、ではない)。そこには、超越-開闢-内在という、私⇔私でないもの⇔どの私でも(誰でも)という思考の運動がある。
(5/8)上野修セクションへの副次的メモ:開闢(開かれ)は、「私」語りと必然的に結合する(?)。となると、動物は? となる。アガンベン、とメモっておく。
[10/28 風邪をひいて若干ダルく、ナーバスになっていた時の思考]

身体から震える様な作品に最近出会っていない、観念のレベルでならいざ知らず。(『ジャパニーズ・スリーピング』は評価が難しい、なんせ眠かったし笑)飴屋法水もやはりピンと来なかった。明快すぎる、んだよ、困惑させるという構造も含め。
物に宿る歴史と、それに触発されて引き起こされる内的ドラマ。いやがおうでも感得せざるをえない時/空間を媒介にそれらが現出する訳だけど…そんなもの演劇の形態を取らずとも溢れているじゃあないか。
演劇的インスタレーションとしても、前に高山明が図書館でやってたやつの方が出来が良かった様に思う。ただまぁ、飴屋法水個人と喋るのは絶対面白い、ハズ。それは作品から滲み出ていた。かしら。
[11/10 飴屋法水『わたしのすがた』体験後]

今年のF/Tにおける「演劇を脱いだ」作品への違和感は…諸制度に従属した人達へのある種の啓蒙が垣間見える、ところに存する。そして作品の構造上、思考する「間」が必然的に与えられ、その分純粋に造形的な美しさに相対する事が出来ないという。後者は僕の問題でもある。
しかし演劇作品、として提示されたらメタの視点を取らざるを得ないじゃあないか。そうでなければもう少し純粋に楽しめたかも知れない。あえてこれも演劇だ、と宣言する事に意味がないとは言わないが…
批判的思考を醸成するという意味では成功しているのかも知らんが、(今の)僕は演劇にそれを求めてはいないす、とりあえず三浦基と勅使川原三郎に期待。11月20と27日に観に行きます。
[11/11 『わたしのすがた』に関する高評価togetterを見、再び作品に思いをめぐらせた時のもの 於サイゼリア]




うーん、こうして見ると意外とまとまった事書いてるな、連投だけを集めて載せてみたんで当たり前っちゃ当たり前だけど、携帯で書く時なんかはツイート間で10~20分あいたりする事もある。
9/20のツイートでも書いてるけど、つぶやいている自分を内省するとどうにも断片的で違和感のある表出行為である、と思うのだけど、表出されたものだけ見てみるとそうでもないっちゅう。
書く主体と書かれた客体に齟齬が生じている、いや、どんな媒体に書いてもそうなんだけど、それが顕著であるという。少し、やはり恐怖は覚える。恐怖は覚えるんですよね。齟齬が生じた事に無自覚になるのがね。
これもう少し考えてみなきゃならん問題だとは思うのだけど、更に長くなってしまうので別の機会に。
転載した演劇に関する文章についても言及したい事がいくつかあるので、それもまた追々。
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テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

演劇の話もする

いや一応思考の中心は演劇だったハズ、なのだけど
いつの間にか言及、研究の対象が哲学哲学となっておりました
恩師に「哲学をする事は演劇をする事だ」などと(飲みの席で)言われたのを良い事に?
演劇に関する思索が殆ど深まっていない、のが現状で御座います
具体的にどうこう語れと言われてもなかなか主張出来る事も少ないので御座います、から
まぁちょいちょい言及する頻度を上げていこうかなと思います、 。


演劇史、を演劇に焦点を置いて見ていると分かりづらいんだけど。
他の表現形態との比較をしてみるとその趨勢が浮き彫りになります。
つまり何が言いたいかと言えば

古代、から中世にかけては演劇というジャンルが絶対的な地位を占めていたという事。
そして、近代になって急激に(急激に)没落していくという事。

前者に関してはあまり付言する事は御座いません、
まぁ他に詩作、とかもあったろうけど、勿論詩だって家で一人で読まれていたのではなく、ある程度開かれた場で音読されていたという事を考えれば、戯曲とそう大した形式上の差異はない事が分かるでしょう。

後者に関してはいくつか要因がある様に思われます。
まず一つ、分かりやすいのは、活字メディアの発達。
表現の場が新聞、などにうつっていく訳ですね。

加えて建築メディアも大きく変わります。
17~8世紀に「個室」というものが登場する。表現の受容形態が個的なものに移って行く。

更には所謂「近代的自我」すね。(嗚呼また主体の話になってしまう)
いやまぁこれは近代(的主体)と死の意識/チャゲアス(的主体)←この辺りを読んでいただければ良いかなと思いますが、少し引用すれば
>産業革命で工場が出来ますね、それまで農業やら畜産をして牧歌的に(?)暮らしていた人達は、自らの仕事を自ら選ぶ様になります。(...)仕事は彼らにとって非常に大きな位置を占めますから、ほぼ人生の選択を自らが行う、という事になる。するとそれまでは必要のなかった自己への意識、が芽生えてくる。

これらを総合して何が起こるかと言えば、小説の勃興です。
新聞に連載小説が載り、それを各々個室で読み。で、自らの事を考えると。
ハーバーマス流に言えば、読む市民は討議する市民へと移っていく訳ですが、それまで劇場という場そのものが討議の場であった時代は終わりを告げる。個々人は分断され、その集合、が国民であるとされる。

思考の中心が極めて「小説的」になっていく訳です。
これは比喩でもありますが近代という時代への直接的な言及でもあります。

現在でも、一般的な文学史などを見ると、項目の第一には必ず「小説」がきて、まぁ後「詩」、とかって続いていくのでしょうが、申し訳程度、に、最後に「戯曲/演劇」が書かれる。
「文学史」の様な知識の集積の形態は近代に生まれたものなので、必然的にそうなる訳ですし、我々もそれを不思議に思ったりはしない。あまり。「文学とは?」と聞かれたら最初に小説を挙げる人が殆どでしょう。

近代というのは理性を主に理性を重んじる時代であるとされます。理性によって、諸々の予期せぬ出来事を排除していこうと。正しい知を集積していこうと。そういう時代で御座います。
演劇のハプニング性みたいなものは、やはり相性が悪かったとも言えましょう。

この様なパラダイムにあっては、演劇はカウンターとしてしか機能しない。
言い過ぎですかね。いや、言い過ぎですが言い過ぎではないでしょう。
僕らだって間違いなくそういう感覚を抱いている。少なくともメインカルチャーだとは認識していない。
アングラの様な活動を称揚し、そこにノスタルジーを抱くでしょう。(個人差アリ)
「高校で演劇やってた女の子」は変な眼で見られるでしょう。(別の要因アリ)
近代において演劇の抑圧が次第に激化するから、以降、演劇が反体制の温床になる訳です。
実際、そういう集会を開いたりする時に劇場が用いられたり、という事も多かったみたいです。

こういう様な文脈の中で、諸々の批評家やら、やらやらが演劇の政治性、近代的政治体制へのカウンターとしての、を語る訳ですが、上記の様な意味での「政治性」には、個人的には正直あまり面白味を感じていない。
つまりその様な体制の中で働く、のでは結局そこ取り込まれているだけじゃないか、という話になる。
本当に政治性という事を言うのであれば、もっと大きな枠組みで見ていかなければいけないんじゃないかという。

作品、の事を考えるのであれば、現行の社会と切り離す事は勿論出来ないのだけど、
それでもやはり純粋な演劇の形態、を理想として掲げる事を諦めたくない、という様にも思います。(ノスタルジー)


全然具体的な話にならなかったけど
リハビリとしては良かったかもしれん

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ミメーシス概念に関する覚書

現代では、あるいは美学史、哲学史では、色んな人が色んな事を言っているんです、ミメーシス(模倣)について。
勿論初出はプラトン『国家』であって、彼はミメーシスを、詩人を、批判する訳だけど、アリストテレスは『詩学』において、そいつを。芸術において根本的な機能を果たしている要素だとして復活させるのです。

以降。特別演劇論にミメーシス概念が援用される事はあまりないのですが、16世紀頃にイタリア、フランスでアリストテレスが発見、研究されたそうです。
(この辺りはかなりあいまいです。12世紀、キリスト教文化がアリストテレスを発見したという様な話もあるみたいなので何とも言えません、が、とりあえずこの時代に注目された、くらいの意味に解してください)
この文脈は知らなかった。常識なのか?…いや、『演劇学の教科書』に書いてあったんですが。前に一度読んだんですが。忘れてただけです僕が。
さて、この再発見があった為に、フランス古典主義には三単一の法則が適用され、そしてミメーシスを核とする表現形態が伸張する、訳ですね。これは非常に重要だ。
以来、20世紀前後、(あるいは現在)まで、「芸術」の基本構造にミメーシスが居座る訳ですね、

ずっとミメーシス、に関する諸言説の差異、に眼が行ってたのですが、この事にむしろ注目すべきだった。
当然の事ながら、芸術の本質がミメーシスであるなんて事は言えないです、なのに何故ここまで強い地位を獲得したのか。
これはまだ明確な事は言えません、しかし近代的な諸潮流と上手く合致した結果でしょう。
理性中心主義的な思考傾向とアリストテレス的なミメーシスは非常にかみ合わせが良い。多分恐らく。これに関しても『演劇学の教科書』に詳述してあったかな。もう一度確認してみようかしらね、


なお、これは最近気づいたのですが、バトラーが「起源なき模倣」という事を言っている。
これはプラトンにおけるヒエラルキー創出構造としてのミメーシスとは根本的に異なるのであります。
バタイユなんかの思想ではこの起源なき、というタームが重要であって、アフォーダンス倫理学他、諸現代哲学の基本的な思考形態でもある様に思われると。
この差異は緻密に見ていかなければいけない、というのは勿論、ですね。


すいません本当に覚書で

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

演劇と社会

演劇界周辺でじわじわと話題になっております劇場法。
(大学で演劇をやっている人間は殆ど知らないでしょうが。小劇場界を盛り上げようとしている彼らがこの様な動向に無頓着なのは、仕方ない、とも思いますがやはり悲しい事で御座います、わ)
こいつが制定されればー…まぁ、社会における演劇の位置づけが大きく変化していく事は間違いないでしょう。
いや勿論目に見える急激な変化ではないかもしれないけどね、現在の平田オリザの構想に沿った形で周辺の諸制度が整い、有る程度人材が確保されれば。そこまでが大変なんだろうけど。
まとまった話が→http://fringe.jp/topics/headlines/20100411.htmlに御座います、
ああ平田オリザ自身の言葉の方が分かりやすいすかね、それは→http://www.seinendan.org/jpn/oriza/msg/
まぁ興味がある方は読んでみると良いのではないでしょうか。

昨日大学のイベントで「舞台芸術環境の未来を考える」ってのがあったんです。
平田オリザが講演を行い、松井憲太郎、伊藤裕夫が質問を加えるという様な形の。

いやぁ改めて平田オリザの話の上手さ面白さに感嘆、内閣官房参与に就いてからますます貫禄が出てきた様に思います、あの小さい身体のどこにそんなオーラが内在しているのか不思議で仕方ありません、が。
話としては今まで、『芸術立国論』を書く前後から最近の劇場法をめぐる議論まで、に彼が喋ってきた内容とほぼ相違ありませんでした、つまり

・予算を国から引き出す事等も考えると、作品創造の枠組みは劇団主体よりも劇場を中心に構築されるべきであり、またそれが世界の趨勢でもある。
・劇場は鑑賞/交流/創造の場であり、有/無形の文化財をノコしていく為には創造の点が強調されるべきであるが、劇場の管理者はアーティストないし作品創造の場について無知であるが故に創造活動が滞ってしまっている。
・劇場法の制定により十分な予算が下りれば、公共劇場も芸術監督等を雇う事が可能になり、演劇関係者の雇用は増え、質の高い作品創造も担保されるだろう。

とか。
まぁ、劇場法が具体的にどの様な内容に落ち着くのかは分かりません、が、
英のアーツカウンシルの様な組織を作って助成金の審査の出来る様な専門家集団を構築した方が良いとか
若手の演劇人に対して奨学金の様な制度を作って作品創造に専念できる環境を作るべきだとか
作品創造に限らず、劇場の階層化を図り、交流、社会参画の機能を持つ劇場も成立させようとか
平田オリザの理念も含んだ諸々の構想、の話等も御座いました、
流石に頭の良い人で御座います、一般人が茶々を入れられる様な隙、は見当たらない程良く練られた‘理念’であった様に思います。



しかし。勿論これだけ大きな変革で御座います、無批判に話が進行してしまっては危険なものとなるでしょう、
良くあるものと同様な批判を松井憲太郎が提示しておりました。
やはり彼もアングラの血を受け継いでいるので御座いますなぁという印象を受けました、。

平田オリザの議論の核は、
市場原理による芸術への介入ないし表現の自由の束縛より、法による芸術への介入の方がマシである
という様なところに見られるので御座います。
現代においてはむしろ、表現の自由を担保する為には、法によって守られていた方が良いのであると。

ここにはやはり方々から疑問の声が呈される訳で御座います、
松井憲太郎は、法による演劇界の統括によって文化の多様性が損なわれるのではないかと。
つまりまぁ、制度に従順では面白い作品なんて生まれないだろ!くらいの一般的な言説を包摂する議論だと思うのですが、ここは極めて慎重にならざるを得ない部分でしょう、

個人的には。
制度(ないし強力なコード)に反発する力の在り方もあるのだから、劇場法の制定によって演劇界全般の力が損なわれる、という事はない、と思います。
平田オリザも、法は完全ではないから、次の世代にどんどん制度も含め改革していこうという気概を持ってもらいたいという様な旨の事を言っておりました、こーのカードを出されてしまうと全く反論できない笑
でもまぁそういう事で御座います。

ただやはり僕も古い世代に憧れを感じる人間なのか、
青年団から出てきた、ままごと、ハイバイ、東京デスロックは劇場費を払ったことが無い
上手くいけばそういう若手の排出の仕方も可能である
と平田オリザが嬉々として語る時、そこには若干の、恐怖を感じざるを得な、かった。と。

大多数の劇団は、主体性が。欠如してしまうのではないでしょうか、従順な身体が量産されるのではないでしょうか、その様な状況下では。
社会に演劇が浸透すれば、所謂無気力な人間が社会参画する事で主体性を回復する事も御座いましょう、しかしその意味ではそれは本当に一時的な現象に過ぎず、気づかない内にまた大勢/体制に取り込まれている事も御座いましょう。
劇団や作品という単位で見ても同じ事だと思います。
この場合、従順なのは監獄においてではなく、劇場法というアーキテクチャにおいて、という事になると思います、

現状を大きく変えていく試みとしては、僕は劇場法は強く推します。
しかし、上に載せたサイトの平田オリザの言葉で
>「劇場法」(仮)制定への動きが、政治の芸術への介入だとする見方もあるようですが、これはむしろ逆だと思います。現在、天下りや行政からの出向の役人たちに独占されている劇場運営の主体を、芸術家とプロデューサーに取り戻すのが、「劇場法」(仮)の大きな目的です。
とある様に、法の内部から法を打ち崩していく様な。脱構築的な体を取らないと、またそれを強く志向しないと、非常に危険でもある、と、もやはり思います。

そして。
平田オリザは、役人に、その様な制度の制約に。負けない様な演劇人が出てくる事を望む、と言っておりましたが。
やはり強い主体が得をする制度となっている様です。
すぐれた文化を構築するという意味ではそれで良いのかもしれませんが。志向すべきはその限りではないでしょう。

法を食いちぎる法でなければならないという事。
文化(の振興)という名の下に、弱者を排斥する法であってはならないという事。
今僕が言えるのはこれくらいでしょうか。



次回は政治と芸術、について書きたいと思います、
ランシエールに言及して。したらば、主体化についても触れられると思うので。今回の話にも関係すると思うので。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

遅ればせながら桜をいくつか/何を見たいので御座いましょうか、

新横浜

箱根山

一枚目の写真は
先日新横浜を散歩致しました、新幹線は通っているものの交通アクセスは非常に悪く、横浜アリーナとラブホしかないイメージ(イメージ)があったのだけど改めました。
広くて綺麗な町で御座いました、少年野球やら花見やらがぽつぽつと見える眺めも良いもので御座います。
アクセスが良ければラーメン博物館の半年入場チケット買うんだけどなぁ
という時のもの。

二枚目は箱根山、といっても東京のもので御座いますが、の、てっぺんを撮ったもので御座います。
小雨が降っておりました故に土、にへばりつく桜。らも美しく
この淡い色に感動してしまうのは日本人の感性なのか、否か、というところは非常に興味が御座いますなぁ、。
などと思った次第で御座います。
本当に満開ないし散り始めだったので御座いますが、携帯の写真では淡い色が出ず空と同化してしまい残念だなどと漏らしていたら、友人に「故に毎年心に留めておくべきものなのだよ風景とは」などと言われ当たり前ながらもその通りであると再確認致しました。

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大学生の芝居を観ていると
お前の悩みなんか知らねぇよ!と言いたくなるものが多く御座います、
勿論悩みのレベルも御座いましょう、「嗚呼恋しい恋しいよぅ」「嗚呼ワタクシの性癖は社会に適合しないのね」「嗚呼一人の人間がなんと無力な事か」
大抵の場合その悩み、は洗練されておりません、当人は切実な問題だ、と思っているのでしょうか。
そんなモノは友人に話していれば良い。三百人の他人に露呈するより幾分健全なんじゃないかと。
まぁmixi上で思いの丈を詩的に綴る、様な感性かと思います。
演劇をそういうメディアとして使うのが全面的に悪いという訳では御座いません、が、個人的には全く面白くない。
(それでも何故千円前後払って、2時間弱も席に座っているかと言えば、時折見えるイメージが面白かったり同時代人のアクチュアリティを感得する事が出来るから、だったりする訳で御座いますが。)

人生を通して彼/彼女が出した「結論」であればそれなりに応答の仕方もあるのではないでしょうか、
真摯な二十数年間をぶつけてこられれば否が応でも感動共感カタルシス、が起こるもので御座います、
舞台を創るんだったらそれくらい見せてくれよと思ってしまうのですね、やはり

と、これは近代的な主体が小説について云々言う時の言説に相違なく、
やはりワタクシがその様な嗜好性を持っているのは間違いありません、

「現代の」「演劇」について言及する際にはこの限りではないのですが、まぁつまらないものを見せられたワタクシの半ば愚痴の様なもので御座います。
いえ、まぁこれなら桜を見ていた方が幾分面白いよ、と。



さてずっと哲学研究をしてきた、と呼べる程のものでは御座いません、ね、哲学関係の本を読み漁ってはいたのですが、演劇についての思考がなおざりでありました。
大学院も演劇科を受ける可能性が高くなってまいりましたし、そろそろ本格的に演劇への思考、を進めようかなぁと思う次第で御座います。
その前に語学、をやらなければならないのです、が、。

テーマ : 思うこと
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kenken

Author:kenken
ベルクソン、フランス現象学辺りから時間/イメージ論にアプローチしております。
哲学をする、事は演劇をする事であり、演劇研究は哲学でしかあり得ないという考えの下に、両者の関係をより精緻に見ていきたいという所存で御座います。
いずれ演出、俳優業も再開したいなぁ、などと!


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