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演劇批評、それ自体(仮) [2.兼ベルクソニスムの一つの紹介-潜勢力/創造の源泉について]

前回の話を踏まえまして、重要な…というか何ですかねあれですね、
卒論での議論の一つの核でもあって、このブログでも言葉はちょいちょい出してきて、
自分の中ではかなりウェイトを占めているのだけど詳述した事はなかった
「潜勢力」についての話をしようと思います。


大学3年の終わりに、『アルトーという潜勢力』という文章を卒論の前段階として書きました。
前回も話に出した『現勢化するアルトー』は勿論それを承けた文章でした。
卒論ではアルトーは使わなかったのだけど、ベルクソン-ドゥルーズを論じる際に欠く事の出来ない概念として用いました。

潜勢力。
語弊はありますが、普段は認識される事のない、現働的な世界の背後に脈々と流れている力とでも言いましょうか。
ベルクソン『物質と記憶』の議論で言えば、「記憶」がそれに当たります。
我々が諸事物に相対する時、例えばほぼ無意識に接する事もあるでしょう。具体的な過去の経験を思い出して、その反省を踏まえて異なった方法で対象に向かう事もあるでしょう。恐らくその仕方は様々です。
どの程度、どの辺りの過去を圧縮して現在に生かすか。もしくは、‘殆ど’過去には依拠せず、その場その場で動物的に対応するか。
それは例えば体調や諸状況に左右されるでしょう。勿論これまでその人がどんな経験をしてきたかにも拠ると思います。
体調や状況もそれを経験している現在の次の瞬間には過去になっていますから、全ては過去の全体によって決められていると言えるでしょう。これは能動的に決定しているというよりも、偶然によって作用していると言わざるを得ません。

ここではまさに、過去の全体、記憶一般が潜勢力として働いている訳です。
潜勢力として機能している記憶の中から、「無限」から、偶然的に行為が‘現勢化’する訳で御座います。

ベルクソンの次の著作『創造的進化』では議論が飛躍的に拡張し、宇宙全体が純粋な潜勢力であるという話になります。
生物の進化は、宇宙、あるいは世界という潜勢力が現働化したものであると。まぁこちらの議論も、非常にスリリングなものでありますが、あまりコンパクトにまとめられる自信がないので割愛します。気になったら読んでみてください


さて、この潜勢力。言ってみれば創造性の源泉です。(こういう言い回しでもかなり概念を縮小化してしまっている事になりますが、まぁ演劇/批評に繋げる為なので便宜的に。)
潜勢力が、もし、(もし、)なければ。創造などという事はあり得ません。
例えば動物の事を考えてみます。彼らにも勿論記憶はあります。「条件付け」なんて実験がありました、これを見ても彼らは過去の記憶を辿って現在に生かすという事を行っていると言えるでしょう。しかしそれでも、現在に近い記憶のみを現働化させているに過ぎません。所謂「本能的な行動」です。過去に抱いた遠いイメージを想起するという事はないでしょう。あくまで現在に近い記憶だけを用いています。5年前旅行に連れて行ってもらった時の知覚はほぼ持っていないかの様に生きているでしょう。生きるのに必要ないからです。現在に近いイメージだけを有していれば、彼らには何の問題もない訳です。ここに創造性を見ることは難しいでしょう。(勿論程度の問題、とも言えるかもしれません。例えば巣を創るのはどうか。上手い事散らばっている材料を拾い集めて独自の巣を創ってしまう。まぁ少し難しいですが、「巣を創る」という行為を更に発展させる事は出来ないという点で、人間の創造性とは質が異なると言えるでしょう。反論はあり得ますが。)

幸か不幸か人間はそういう訳にはいかない。嫌な記憶でも想起せざるを得ないし、またそうでなければ他者との関係は成り立たないでしょう。そしてそれ故に、人間は創造力をも持ち合わせているのです。


創造力は必要か、これもまた難しい問題だと思います。自分ひとりで、木の実を取って食べていくだけであれば、特に必要もないと言えるでしょう。しかしここにもう一人、二人と他者が現れた際には事情が変わります。
彼らと何とか折り合いをつけていかなければなりませんし、そうすると例えば「制度」や「道具(言語等を含む)」や「概念」を創る事が必要になるでしょう。制度や道具はそれ自体で完結せず、必ず何かしらのエラーを抱える事になりますから、更にそれを無限に改変していく力が要る事になると思います。
(この事はある程度前提としてこれから語る事になりますが、100%自信を持って言える事ではりません。ここでは詳述しませんが、疑問を抱いた方はコメントでなり直接なり声をかけていただけると有難いです。)

しかし。我々はどうしたって楽に生きたい。できる事なら、他者との衝突なく、何も考えずに食べていければそれが一番良い。それ故に、なるべく考えない、考えない方へ向いていく訳です。この辺りで前回の話とつながってくるのですが、「考えないでその場を生きる」という習慣が身に付き、それを第一義に捉えると、「理論なんて要らない」という発想に近づいていく事になるでしょう。
でもそれでは社会全体は上手くいかない訳です。我々は常に創造力とその源泉を保たなければならないのです。
ここからの議論の展開は僕個人の考えになりますが、まさしく前回の話に出てきた「哲学における理論」はそれを担保するモノとして立ち現われるでしょう。
哲学の理論は、潜勢力そのものです。勿論使われ方は様々で、誤読されたり悪用されたりするでしょう。
ですが、それも現働化の一様態であって、大きく見ればやはり創造力の源泉となっているでしょう。

アルトーもまさしく、極めて強度の高い潜勢力であると言えると思います。
それ自体では殆ど何を言っているのか分からない。それでも、彼を基盤として様々な優れた演出家が登場し、作品が生まれ、あるいは哲学の議論が展開された/ている訳です。勿論、それらの作品や議論は再び潜勢力として機能していく事になるでしょう。


大体今回の主張はこんなところです。
創造力の源泉=潜勢力を確保する事。哲学もそうですが、芸術も勿論その一翼を担っていると言えます。
昔友人が「芸術がなくなったら世界は滅ぶと思う」と言っていましたが、今ではあながち間違っていないなと思います。

さてここから問題になるのは、/ベルクソン(あるいはそれを承けて議論を展開させたドゥルーズ)が問題視しているのは、この潜勢力にも程度がある、という事です。先ほど強度という言葉を使いましたが、「強度の高い≒良い?」潜勢力、「強度の低い≒悪い?」潜勢力というものが存在するだろう、という事です。
我々一人ひとりだって潜勢力それ自体であるし、勿論動物も、一応、そう。あるいはもっと言ってしまえば植物、有機物、無機物にだってあるかもしれないという話になっていくでしょう、ラディカルに考えると。
諸理論や諸作品もそれぞれ潜勢力であると言う事が出来ます。人間という潜勢力から生まれた(現勢化した)作品がまた潜勢力であり得るというのだから、程度の問題に還元せざるを得ません。
ではこの強度を上げ(下げ)ているものは何なのか、という事を突き止めなくてはなりません。

ここはまぁ今後の課題としているところで、まだハッキリした事は言えないのですが、
この連載?の中で少しでも触れられればと考えております。
とりあえず、案の定長くなってしまったので、一旦この辺で。
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テーマ : 哲学
ジャンル : 学問・文化・芸術

「素朴」について(言語による分節化と即自的様態)

お久しぶりです。いつの間にか一か月半以上も空いてしまい、気付いたら新年を迎えておりました。
卒論でてんてこ舞いだったこともありますが、ノートPCがイカレてしまい、2~30分で強制終了してしまう様な状況だったのでブログ更新がままならなかったということが大きいです。(卒論はネットにつながっていないデスクトップで書いておりました)
が、ノートPCを先日新調したのでこれからはりきって更新しようかなと思います。twitterでは書ききれないことも多いのでねやはり。
とりあえずは肩慣らし、くらいの感じで行きたいと思います。



最近ちょくちょく「素朴」という言葉を目にします耳にします、

「素朴にそう思う」
「素朴に感動した」

ややこしいこと抜きにして、単純に。混じり気なしに。思ったり感動したりするのでしょう。
成程こういう感覚は非常に大切だと思われます。諸メディア、に媒介され、資本に回収された欲望を、自然なところに開放してやること。勿論ここでいう「素朴」がどこまで本当に素朴なのかは疑問が残るところですが、一つの目指すべき傾向として、この「素朴」を挙げることはできるでしょうし、それは間違ってもいないでしょう。

しかし僕はそういえば。素朴という言葉を書いたことも発声したこともなかった、これまで恐らく。
「純粋に」とか「単純に」とか、似たような言葉は使っても「素朴に」という語彙は僕のうちには存在しなかった。
つまり、「素朴」という言葉による分節化は行われていなかった訳でございます。

どういうことかと言えばー…
例えば、「辛(から)い」という言葉を獲得するまで、今我々が感じている「辛い」という感覚は、「痛い」などといった言葉で表象されていた訳です。「辛い」と「痛い」の区別はなかった訳です。「辛い」を知らないんだから。
「辛い」という言葉が生まれて初めて、「辛い」と「痛い」の感じ分け、分節化、がなされる。
我々の知覚、感覚、認識は、言語による分節化を基にして行われている部分が大きい。「異なる感覚があるから異なる単語が生まれる」という一般的な見解とは反対に、です。

で。僕は、「素朴」という単語を有していなかった。
僕の感覚からすれば、「素朴」じゃない「思う」は「考える」だし、「素朴」じゃない「感動」は既に「感動」じゃない。思ったり感動したりする時には、それは「素朴」以外ではあり得ないのです。

しかしこの「素朴」という領域。サルトルのタームを用いれば即自的様態と言えるのだろうなぁなどと考えておりました。素朴とはまさに、素朴以外のものではありえないようなものなのであって、到達しようとする度に手からすり抜ける様なもの。もう少し言えば、「これは素朴だ」という形容をする度に、それは既に素朴ではなくなるのです。
「素朴」、と言う時には、「素朴でないもの」が常に前提されている。ややこしい言い方をすれば、「素朴」とは「素朴ではないものではないもの」としか規定され得ず、否定的なものとして表象されるでしょう。それは既に素朴ではない。言語を介しては決してとらえることのできない領域、これが即自です。

「素朴」という言葉を使う人も、即自的に「素朴」な体験をしたのでしょう。しかし、それを表現する手段を持たないが故に(表現すると同時に素朴でなくなってしまうが故に)、苦し紛れに?、最後の手段として「素朴」という言葉を用いているのでしょう。
しかし、あまりにも「素朴」という言葉が前景化しすぎてしまうと、本当に即自的な「素朴」が失われてしまうのではないか、という危惧もある訳で御座います。
「素朴」を生きるのであれば、「素朴」という言葉から離れなければならない。何というジレンマ。でもまぁ、そういうことです。

僕も今回の記事で一生分の「素朴」という言葉を使いました笑、もうこの言葉から逃れることはできないでしょう、が。即自的な素朴、という身体感覚を失わない様に、日々感覚を練磨させなければならない。本当に必要なのはそういうところでしょう。
単に言語を捨て、動物的な生を生きようとすることではなく。言語による分節化を引き受けた上で、それと常に対峙していくこと。「社会」の中で生きることを考えるのであれば、それより他に道はない様に思われます。



社会、という言葉を使ってしまった。極めて大きな問題です。これについても改めて書かなければなりませんが、とりあえず(肩慣らしのつもりが案の定)長くなってしまったのでここまでにしておきます。また近々。

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脱/ヒエラルキー(と演劇的共同体/)

結局なんか諸々書くとか言っておいて放置してしまった。
まぁ語学に問題がありすぎてブログなんか更新してる暇がなかった、のです失礼致しました。
とりあえず一次試験は突破したのですが、後8時間後くらいに面接がありますので、その対策としてというか。とりあえず僕の思考の核をまとめて示しておこうかと思います。



もう何度も何度もブログで書いているのだけどね、問題の前提を、まとめてもう一度書いておきます。
とにかく現代の哲学に通底しているのは「脱ヒエラルキー」という観念。
プラトンはイデアを頂点に置いたヒエラルキーを考えた。そして例えば個人も共同体も、正義というイデアに近づいていく事が「善」であるとした。
近代という時代は、知の集積によってその頂点に近づこうと考えた。正しい知とその認識を重ねていけば、真理に到達出来るだろうと。その最たるものがヘーゲルの弁証法で、止揚を繰り返す事で正しい観念だけが生き残っていき、頂点を目指していくという思考法であった。

これが、ニーチェの登場によって一気にひっくり返る。そもそも「正しい」なんてものはないだろうと。その様な垂直的な価値基準は、前提として例えば「神」を、「理性」を置かなければ成り立たない。なんだ、結局人間の欺瞞なんじゃない全部。

プラトニスムと近代における、この「正しい」ヒエラルキーというのはかなり強固なものであって、現代の僕らだってそこに多く拠っている。絶対的に「正しい」ものがあると安心するし。

個人のレベルでこのヒエラルキーに依拠する事は問題ない。何かしらの価値基準は持ち合わせていないと、まともではいられないだろうし。
しかし、これがもう少し大きなレベルになってくると話は変わってくる。
例えばキリスト教はどうだ。自らの「正しさ」を主張して対外戦争を繰り返したのではないか。(他の宗教も別な「正しさ」を主張する場合、自らの宗教にとってそれは都合が悪い訳だ。二つの異なる「正しさ」は同居し得ないのだから。)
どうしてもこのヒエラルキーというのは、排除のシステムを内包している。そのシステムにそぐわない「悪い」ものは告発され迫害され抹殺されてしまうのであると。

この必然的に暴力をはらむヒエラルキーというのを、現代哲学は忌避するので御座います。
(あーやっぱり長くなった、前提の確認はほんの少しで終わらせるつもりだったのに。でも本当に重要な事だと思います。)



で、。どの様に?という話になる。
(このヒエラルキーを考える上で問題となる事は本当に多いのですが、とりあえず大きなフレームワークをメディアについて/身体について/イメージについてで書きましたので、お時間のある方はそちらも参照していただけると良いかなと思います。合わせると8000字近くなるのでご注意笑)

ここで。僕は、演劇という共同体が、ヒエラルキーを脱していく一つのモデルになるんじゃないかと考えている訳です。


で、これから色々書こうとしたんですが。あまり上手い事言葉にまとまらなかった為とりあえず保留します。
朝早いというのに夜更かし、になってしまったし。
結局前提の確認だけで終わってしまったのだけど果たして八時間後の面接は大丈夫なのであろうか。
まぁ対話の内で諸々展開させていけると思うのであまり心配はしていないのですが、ね。
とりあえずこの辺りで失礼致します。次回の記事で演劇的共同体、について散漫にでも書こうと思います。

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現代と私とベンヤミン

今までなんとなく敬遠しておりましたベンヤミン
『複製技術時代の芸術作品』なんかはうちの学部の必読書、みたいな感じだったので読みましたが
まーそれも大してピンと来ずピント合わず。
非常に様々な活動と言説展開とでかなりとっつきづらかったというのも御座いますが、あんまり大した事言ってないんじゃないだろうかなどと思っておりました、が、その理由がようやく分かりました、

ベンヤミンのアクチュアリティはまさしく現代の我々の、少なくとも僕のそれ、と非常に近接しているのです
故にこんな事当たり前じゃーんという感覚に捉われていたのです。でした。

いやぁ現代思想なんてかなりそういう代物は多いすよ、思想に疎い友人に‘簡潔に’誰かの言説を説明すると、「だから?」みたいな感じになる。
いやまぁ文脈が欠落した状態で、しかも単純化して、語れる様なモノでもないんですやはり。
のに加えて、現代の我々がそれを当たり前の感覚だと思うのは、ひと世代前にそういう言説展開をしていた人がいたから、という事にもなるでしょう。勿論日本と海外(主に仏)の感覚が違うというのも御座います。

まぁどうあれベンヤミン。
彼の「知」の在り方というのは、収集であり配列であり引用であり解釈であり破壊なんです。つまりまぁコラージュ的、であると。これは伝統的な、蓄積と進歩の形態とは大きく異なるモノで御座います。
ここには彼の‘アンビヴァレントな’主体性が存している様に思います、彼は右的でもあり左的でもあった。極端な立場を同時に内在させていたので御座います。
伝統の解体、という一貫した態度を極めて強くとっておりましたが、その為に収集した同時代の諸言説は普通に考えれば決して同居し得ないものであったと考えられる。
また、一つの対象の内に、抑圧と解放という両義的な観念を同時に見ていた。
例えば記号的な価値を付与された「商品」には、マルクスがそこに物神崇拝(フェティシズム)を読みこんだ様に、ある種神話的な暴力が内在している。
しかし、ベンヤミンはそうした夢、からの覚醒という瞬間に煌めきを見ていたと。

現代に横行している感覚、からの脱却、というパースペクティヴが常に彼の頭の中にあったので御座います、
一様に解釈、理解されているモノはダメだと。そこに新たな解釈を付与していく事が出来なければならない。
(上記した「破壊」、とはその様な意味で御座います)
それは例えば「街並み」を前にしてもそう。パサージュ(小道)を歩いてみると、ある対象がフっと眼に留まる事が御座います。過去の記憶が無意志的に呼び起こされて、いまミているモノと交錯する。
現前している風景とは異なる、新たな「情景」がそこに広がると言えましょう。

過去には実現し得なかった無数の事象が御座います。過去の記憶、とはその「実現し得なかった可能性」を背負って存在している。しかし、現代、現在の風景によって新たな意味を付与され、一つ可能性が現勢化した事になる。
この様な感覚を彼は「陶酔」と呼ぶ。上記した『複製技術時代の芸術作品』の重要タームを用いれば、「アウラ」的遭遇、とも言えるでしょう。


ベンヤミンは具体的に政治参加をした訳では御座いません、また、上記の様な思想から、伝統的作品に新たな解釈を付与する批評活動、は積極的に行っていた様ですが、あまり自らの思想を体現できた、とは言えないでしょう。
故に何か説得力を欠いている、という様な印象があったのは事実です。
コラージュとかアンビヴァレントとか陶酔とか。ってモチーフは僕が高校時代から抱えていたモノでもあって、だから余計に重要性を見出せなかったというのも御座います。
しかし現代において新たな哲学を開拓するのであれば、やはりベンヤミンから出発しなければならない、と、思いまし、た。自らのアクチュアリティを無視してしまえばメルロ=ポンティが批判した様な「上空飛翔的思考」に陥ってしまうでしょうしね。
勿論僕の感覚が現代の感覚と多く一致するか、と言えばそんな事はないでしょうが笑、在る程度は共有できるんじゃないかと思います、思っていますがねぇ、いかがでしょうか

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とりあえず主体の話を一段落させよう、しかし意外と核心かもしれん

いくらでも書かなきゃならん事もあるし考えなきゃならん事もあるし読まなきゃならんものもあるんだけど、かなーり専門的になってしまうので、そして勿論答えが出るものでもないんで、そいつはとりあえず院試が終わってから、にしようかと思います。
卒論でその様な事を、まぁ書くかもしれません、分かりません、が


何度も主体、について書いてきたのですが。
結局、近代的な主体は失効している!という様なお話。でした。
神や仕事やその他諸々の「他者」によって成立する様な近代的主体は。

フーコーに言わせればそれらは「見せかけの主体」であって、そこを基準にした主体論は既に成立しない。
教育、なんてのも近代的主体を確立する大きな一因で御座います、
近代国家の確立は教育を基にして初めて可能になる訳ですし、標準語の獲得、識字率の上昇、あるいは特定の歴史観の共有とか。これらによってナショナリズムやらパトリオティズムやらは芽生えるでしょう。
(大分議論を端折りましたが良く分からなければ質問を下さい)
国家に依拠する形での主体の形成がここにはある。

しかし勿論お分かりの様に、例えば今純粋な「右翼」は、少なくとも若者には、殆どいない。
小林よしのりが批判するのはここでしょう、(彼の著作は読んだ事ないけど。)
ネトウヨに代表される様、彼らの右系の思考の大半は流れに乗じたモノであって、ここには「国家に依拠した主体形成」は見られない。「敵」がいればそれも成立しやすかったのでしょうが今ではそうもいかず。場合によっては嫌韓、みたいな形で仮想敵を構築していますが、それが強固になるはずもなく。
(いや、イメージ先行の方が強い好悪を生む、といった事は考えられますが、それは非常に脆弱であるという。事。)


教育制度を止めろという話ではないです、勿論。それだけではダメだと言っているのです。
嗚呼簡潔に自分の考えだけ置いて行こうと思ったのに、結局前置きが長くなってしまった


改めて、主体化の為に何が必要か。
key wordになる、と考えているのは時間性、と直接性、です。

時間性と言っても諸々ある訳です、例えば「伝統」
脈々と受け継がれてきた思考様式であるとかその共同体の歴史であるとか45億年かけて構築された自然であるとか宇宙であるとか。
壮大な伝統に思いを馳せる時、この…なんだか分からないけど凄い。みたいな感覚。
絶対的に自己に内化されない様な「他者」、としての時間性。

もう一つ、自己に流れていてる時間性、も想定する事が出来るでしょう。
少し話を単純化、しすぎてしまう事になるかもしれませんが、
幼い時に経験した諸々の事象。
ベルクソンを参照するまでもなく、それら‘全て’が自らの基盤となっているという事は理解されましょう。
その中でも特に輝かしいある一点の記憶、が彼の未来を大きく規定する事になったりする訳です。あるいはそれは間違っているかもしれない。それでも間違いなく一時の自分を方向付けていたものとして、何かしらの形でノスタルジーを覚えるでしょう。
ある一点、と書きましたが勿論点、ではなくて。一定の長さを持っているのであって。
さらにその「点」は他の「点」にも依拠したものでしょうから、
結局過去全体がノスタルジーの対象になる訳です。
この過去の経験、は新しい他者によってぶれが生じる様な。そういう性質のものではないので御座います。
…なんかこの辺議論の展開が弱いな、もう少し詰めてみようと思いますが、大枠はそんなところです。

(内化されない絶対的な他者、の話はバタイユ、自己の時間性、の話はハイデガー、がしております。バタイユ、ハイデガー、後はまぁブランショらを用いて共同体論を進めるナンシーの意図もようやく理解できました)


そして加えて直接性。
「神」の経験、というのはやはり本質的なものだと思うのです、
僕が使った言葉で言えばそれは「宇宙」に当たる訳ですが、
問題なのはそれが宗教、という制度に落とし込まれてしまったという事。
媒介、を通しての経験ではダメなんですよ、「理解」されてしまう様な「神」では。


僕が教えている塾では「あわ玉」というアメをご褒美にしております。
同じ中学の子を塾に紹介したらあわ玉、とか
難解な問題が解けたらあわ玉、とか?まぁ適当に諸々。

塾によっては塾内一位の成績で図書券、とかって制度もあるでしょう。
うちの塾長はそれはしたくないんだ、とおっしゃっていました。
最初は大した違いはないだろうと思っていたのです、結局モノで釣ってるじゃないかと。
しかしこの「あわ玉」、には直接性が担保されている。
生徒と先生の関係性が、「あわ玉」によって媒介される、という構図ではない。

「えー先生、今のはあわ玉もらえるレベル(の頑張り)でしょー」

「あわ玉」には感情が内在している。直接性の基となるのはこの感情、で御座います。
この関係が保てている限り問題はないんじゃないだろうか。この直接性の経験は生徒達の「輝く一点」、となるでしょう。
別に「あわ玉」だけが、という話では勿論ないのだけどね笑

ただ公教育で。三十人の生徒を前に授業なんかした日には、彼ら全員と直接的な関係を保つことは非常に難しい。
今僕は多くて十人の相手をしておりますが、それでぎりぎりだと感じている。
すると、先生はある程度制度を媒介にして生徒を統率するしかない。
それで一見「場」(この場合例えば教室)が治まったと思ってしまう。
個々の内的感情は決して治まっていない。

この様な事は恐らく諸々の教育論で語られているだろうとは思いますが、
僕も自らの経験と哲学的思索からこういう問題設定をするに至った訳で御座います。

政治あるいは国家とは、国民全員を媒介する機関で御座います。諸々制度を確立する事で日本という「場」を治めようとする。教育もそうだし、例えば福祉、や法律、とかもそうでしょう。
しかしここには問題がある。なら、
残された道は直接性を担保する機関、としての政治、国家。じゃないでしょうか。
これは単なるイデオロギーとして排斥されるでしょうか。僕はそうじゃないと…主張したいですけどね。
もう少し理論武装、言説武装する事にします。

(直接的な「神」の経験、の話はバタイユ、直接性を担保する感情、の話はハイデガー、がしております。うへぇ。)



嗚呼、十行くらいで終わらせるつもりだったんですが結局これか、
僕普段はそんなに雄弁じゃないんだけどねぇ、文章にするとどうしても長くなってしまうみたい、
とりあえずはこんなところです。
時間性、と直接性。

しかし。さて。私が勉強しているのは、一応「表象・メディア論」という事になっています。
えと、まぁそういう学部に属していて、まぁ院もそういうところを受けます。よ。

メディア?媒介じゃないか。直接性とは反するじゃないか。
後はー…例えば新しい芸術の形として「写真」とかあるじゃないか。完全に時間性を捨象した表象形態じゃないか。
とか。言われます。いや直接言われた事はないけど言われうる。でしょう。

ただまぁ事はそう単純ではないんでね、
以降、細々、表象、メディアについて書いて行こうと思います故、まぁ適当に眺めてみて下さい。

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プロフィール

kenken

Author:kenken
ベルクソン、フランス現象学辺りから時間/イメージ論にアプローチしております。
哲学をする、事は演劇をする事であり、演劇研究は哲学でしかあり得ないという考えの下に、両者の関係をより精緻に見ていきたいという所存で御座います。
いずれ演出、俳優業も再開したいなぁ、などと!


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