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ミメーシス概念に関する覚書

現代では、あるいは美学史、哲学史では、色んな人が色んな事を言っているんです、ミメーシス(模倣)について。
勿論初出はプラトン『国家』であって、彼はミメーシスを、詩人を、批判する訳だけど、アリストテレスは『詩学』において、そいつを。芸術において根本的な機能を果たしている要素だとして復活させるのです。

以降。特別演劇論にミメーシス概念が援用される事はあまりないのですが、16世紀頃にイタリア、フランスでアリストテレスが発見、研究されたそうです。
(この辺りはかなりあいまいです。12世紀、キリスト教文化がアリストテレスを発見したという様な話もあるみたいなので何とも言えません、が、とりあえずこの時代に注目された、くらいの意味に解してください)
この文脈は知らなかった。常識なのか?…いや、『演劇学の教科書』に書いてあったんですが。前に一度読んだんですが。忘れてただけです僕が。
さて、この再発見があった為に、フランス古典主義には三単一の法則が適用され、そしてミメーシスを核とする表現形態が伸張する、訳ですね。これは非常に重要だ。
以来、20世紀前後、(あるいは現在)まで、「芸術」の基本構造にミメーシスが居座る訳ですね、

ずっとミメーシス、に関する諸言説の差異、に眼が行ってたのですが、この事にむしろ注目すべきだった。
当然の事ながら、芸術の本質がミメーシスであるなんて事は言えないです、なのに何故ここまで強い地位を獲得したのか。
これはまだ明確な事は言えません、しかし近代的な諸潮流と上手く合致した結果でしょう。
理性中心主義的な思考傾向とアリストテレス的なミメーシスは非常にかみ合わせが良い。多分恐らく。これに関しても『演劇学の教科書』に詳述してあったかな。もう一度確認してみようかしらね、


なお、これは最近気づいたのですが、バトラーが「起源なき模倣」という事を言っている。
これはプラトンにおけるヒエラルキー創出構造としてのミメーシスとは根本的に異なるのであります。
バタイユなんかの思想ではこの起源なき、というタームが重要であって、アフォーダンス倫理学他、諸現代哲学の基本的な思考形態でもある様に思われると。
この差異は緻密に見ていかなければいけない、というのは勿論、ですね。


すいません本当に覚書で
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テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

近代(的主体)と死の意識/チャゲアス(的主体)

人文科学をやっていると、近代-ポスト近代みたいな対立項を強く意識せざるを得ない。
諸学問の潮流は1900年前後のニーチェ、フロイト、ベルクソン、ソシュール、数学で言えばヒルベルト、辺りの登場によって大きくパラダイム転換をするんです、
そして現代の思考基盤が、彼らに加えバタイユ、ベンヤミン、現象学、構造主義、等、に大きく依拠しているところもあって、ある程度人文の内に身を置いている人同士、が出会うと、「お前それは随分近代的な発想だな」とか「弁証法(笑)」みたいな会話が成り立つ訳です。

しかしまぁあまりに近代の思考基盤が大きすぎて、どうしてもそこを乗り越えるという様な意識が強くなってしまう、故「‘近代’だってある特殊な一時代に過ぎないんだから、そこを前提に話を進めるのはオカシイ」という提言も御座います。まさしくその通り。

一般的に、近代を特徴づけるのは「自己の確立」とか「主体の発見」とか言われている様な事どもで御座います、
主にヨーロッパの話になりますが、産業革命で工場が出来ますね、それまで農業やら畜産をして牧歌的に(?)暮らしていた人達は、自らの仕事を自ら選ぶ様になります。プロテスタンティズム、まぁ職業召命観的な思考様式も相まって、仕事は彼らにとって非常に大きな位置を占めますから、ほぼ人生の選択を自らが行う、という事になる。
するとそれまでは必要のなかった自己への意識、が芽生えてくる。自我の誕生で御座います。
小説が勃興したのもこの時期、17世紀から18世紀にかけて、と言われますね、原初的な‘小説’は、自己言及のカタマリみたいなもので御座います、から。
(だから「私小説」ってジャンルはオカシイだろ、と言われます。上の意味で言えば小説は全て私小説だもの。)

これが。僕が。何度も話題にしている、「主体」あるいは「主体化」の(議論の)ハシリです。
こいつを少し発展させてヘーゲル的に言えば、弁証法的に言えば、
主体化とは、異質な他者を内化していくプロセスな訳で御座います。
嗚呼、僕本当に同じ事を何度も書いていますね、一番詳しいのは ココ かしら。ちょっと引用すれば、

>一般的に言って、「しっかりした自分を持っている人」っていうのは、「問題意識を持っている人」であると。
>外部の情報と自己が矛盾するものであると認識した上で、いかにその齟齬を乗り越えていくか。
>これが自己にとっては問題になる訳だ。問題解決の為に、その矛盾を内化していく事。
>まさに弁証法的な在り方だけど、これが近代的な主体の確立と伸張の仕方、だと言う事が、出来る、と。
>アンテナを広げて様々な情報を取り込み、自己と対立させた上で内化していく事の出来る人を、世間ではデキル人、と呼ぶでしょう。

という事。
いやそれで、何が一番大きな「他者」、あるいは「外部の情報」かと言えば、「死」な訳です。
こいつだけは。死、だけは、内化しようと思ったってどうしようもない。基本的には。
皆必ずどこかで。程度の差はあれ、死への意識に苦しめられたハズで御座います、僕も小学校4年の時にそれはかなり強烈で長い苦しみと闘っておりました、(キッカケがトイレの花子さんに出てくる「とんからとん」っておばけだったってのは、今となっては笑えるんだけど)あるいは中学二年の時、別の契機によって現前してきた死、と。暫く並走しておりました。高校三年くらいまで。

当然苦しい訳です、故、人は宗教に頼ってその不安を緩和する、とか、あるいは死を日常生活から切り離して隠したりする訳です。
現代の若者、が無差別に人を殺すとかって事件をちょいちょい耳にしますが、彼らはこの死の内化のプロセスを上手く消化できなかったのかもしれません。

で。何が言いたいって、いやこれを言いたいがためにこんなに長い前置きをしたのですが、
死への意識というのは、人間であれば必ず通過するのであって、それは例えば未開社会の人たちも例外ではない訳で御座います。人類は「社会」を構築するくらいにまで発達した段階で、この絶対的他者、死、は必ず彼らの前に現れる訳で御座います。
故、むしろ主体化の契機、はここにあるんじゃないだろうか?近代において主体化がなされるとか言うけど、程度が増した、くらいの事でしかないんじゃないだろうか?
と、いう事。言ってみれば当たり前です、「中世以前には主体化がなされていない」って考える方がオカシな話でしょう。ルネサンス期にも人間復興、とか言ってた訳だし。
と、あまりこの近代と近代以前の主体の話に言及している論考を見たことがないので考えてみなきゃいけない問題かなぁとは思っているのですが。
ただバタイユはこの様な原初的な死への意識、についての言説展開をしているのでヒントにはなるかなぁと思っております、。

近代以前も近代もポスト近代もやはり連続性を持っていて。大きな、パラダイム/構造転換があった事は事実でそれは重要な事なんだけど。この連続性は念頭に置いておかなければなりません、ね。
無意識の領野とか精神病、あるいは難民、ムーゼルマンの話を持ち出して、自我の失効が云々と言われるけど、一般的には、大多数、は我々は十分に近代的主体である事も忘れてはいけませんね。
等と。まとめる気はなかったんだけど無理やりまとめたらツマラン感じになった。書きたい事以外を書く、のはやめようやはり。



勉強に疲れたら歌を歌います。
なんと家に防音室があるので。何という中の上流家庭。
カラオケの機械もあるので伴奏も流せるんだけど、音良くない前奏、間奏、とか聞いてるのはだるいので勝手にアカペラで歌ってます。

最近はもっぱらChage and Askaです。
リストはこんなところ

One day
なぜに君は帰らない
モナリザの背中よりも
ロケットの樹の下で
THE TIME
no doubt
Knock
NとLの野球帽
On Your Mark
太陽と埃の中でNO GAIN NO PAIN
PRIDE
C-46

こんなところか?まだあるかな、
自分で歌って恍惚に浸る事もあり。
カロリーも消費できて鬱憤もはらせて。良いなぁ歌、あるいは防音室、あるいはチャゲアスは。
youtubeのリンクを張りましたので是非お聞きください。C-46だけyoutubeになかったので別のところのです。でも一番聴いてもらいたいかも
嗚呼何というノスタルジーはふぅん

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

《連載》気づけばにわかにサイボーグ、そしてある種の生の哲学/

(今までの。記事二回分、
気づけばにわかにサイボーグ、そしてある再び現象学、
気づけばにわかにサイボーグ、そして所謂ゲシュタルト、
を読んで頂けると話が比較的スムーズに伝わるかと思います、比較的)

いきなりですが、フーコーが提起した「生政治」の話を少し。
一般的に、政治権力は我々を支配しているのだ!と言えると思います、し、種々レベルはあると思うけど皆そう思っている、ハズです。

しかし例えば近代以前の宗教権力や王権が、非常にクリアな形で我々の自由を制限していた
(加えて多くの場合、被支配者側がそれを容認していた)のに対して、
おおまかなくくりでは御座いますが近代以降。フーコーが大きく取り上げた病院、や、学校、や工場、等の諸制度は、いわば「監獄」の様な役割を果たし。我々の自由を身体レベルから奪っていった。
後者の形態を「規律訓練型権力」というのだけど、ここにおいて我々は、‘自発的に’自らを規制しているのであって、権力によって自由が損なわれている、という事にすら気づかない。という構造になっている。
我々の「生」すら、「生政治」によって管理されているのである。というのがフーコーのテーゼになる訳です。

まぁ現代においては新たに「環境管理型権力」なんてのも議論されるんだけど、これはまぁ置いておくとして。

アガンベンはフーコーの問題提起に応答する様に、議論を発展させるのです。
フーコーは、「生」すら権力の下にある、と言った。しかし、そこで言われる「生」とは社会的な生(ビオス)であって、より根源的な動物的生(ゾーエー)を見ていかなければならないんじゃないか。と。
権力に対抗する為の、最終防衛ラインとして、アガンベンはその様な動物的な生を立てる。


この辺りから前二回との話につながるんですが、
我々のその様な動物的な生、すら管理される、あるいはされている可能性がある訳です。
例えば。脳そのものを取り出して水槽に浮かべ、生かすも殺すも管理者次第。何を持ってその脳に特異性を与えるかも管理者次第。という様に。

しかし、言葉を変えればね。「水槽の脳」というのは、完全に(完全に)管理された生になる訳です。
その管理主体が他の人間になるのか、ロボットになるのかは分かりませんが、
どうあれ規律訓練型とは比べ物にならない管理体制ですよ笑
フーコーの言う規律訓練型権力には徹底抗戦の姿勢を示すのに、「水槽の脳」は面白いとかって言説展開をする人がいるものだからタチが悪い、というか意味が分からない。きっとアンビヴァレントなのでしょう、が。


つまり問題は。生そのものへの管理、例えば水槽の脳、にどの様に対抗するか。という事。
これは、アガンベンの様に我々の生命、動物的な生、を基盤に話を進めるのではどうしようもない。そこ自体への権力が問われているのだから。
デリダなんかは初期からこの様な問題に非常に敏感だったと言われます。生/死の二元論から問題にアプローチしていく事、に違和感を覚えていたのだと。
(故に超越的な枠組み、例えばエクリチュール、を土俵にして言説展開をしていたのです。多分。)

いやぁ非常にデリケートな問題であって、僕はここで結論を出す事はできないのですが、
スピノザ-ニーチェ-ドゥルーズ、あるいはベルクソン-ドゥルーズ系列に見られる様な、「内在平面」の概念等には、我々の生、あるいは経験的領野、に拠らない様な倫理的な基準を見出す事が可能でしょう。
その時に「主体」の問題を。いかに扱うかが非常にデリケートで皆悪戦苦闘している訳ですが。
現象学者は「主体」にヨりすぎだと言われ、構造主義は「主体」をないがしろにしすぎだと言われ、
フーコーが「主体の死」を宣言したとは言え、デリダやドゥルーズ、ないし現存している哲学者がこの問題を乗り越えたとは言い切る事はできないでしょう、
もう少し、大きなパラダイム転換(「主体」という概念を失効させる様なそれ)が、近く起きるんじゃないかと。勝手に考えていますがいやはやなんとも

と最後はただの雑感ですが。
しかしもう少し、現象学は見ていくべきだと考えております、個人的には。
うーんメルロ=ポンティ、ミシェル・アンリ、を本格的に研究したい、が、そいつは受験後かなぁ!

とりあえず後三カ月でメディア論とか(とか演劇!)をまともに勉強しなきゃならん(演劇をまともに勉強してなかったってところが笑えます何やってたんだろうかね)、という事が分かりましたので
まぁ、頑張りますとしか書けないのだけど。kenken先生に励ましのお便りを!


追記
去年教えてた子、のお姉さんが同僚なのだけど、「弟がkenkenみたいな先生になりたいって言ってましたよ」と伝えられ感涙するまである
嗚呼もう塾に骨をうずめても良いのではないだろうか!思ってないけどね、思ってないけど。あんまり。
しかし今教えている新中1、に「先生少し肥満になったね」と言われ悲涙するまである
「少し」「肥満」とはどういう事だ!しかもここ4、5カ月は太っていない、
薄着になったから「少し」「肥満」が露呈してきたという事かあははっははははあはh

ガチで凹む(お腹も)

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

《連載》気づけばにわかにサイボーグ、そして所謂ゲシュタルト、

前回の続き、をちまちまと書いていたのですが、なかなか話が錯綜し上手くまとまらず。
とりあえずいつまでも放置するのも心地が悪いので見切り発射では御座いますが書いてみようかと思います、

さて前回は「水槽の脳」の話をしたので御座います。
我々の知覚している世界も本物じゃないかもしれないぜ!ヤバいぜ!というお話。

しかし。まず。僕にはね。水槽の脳が、現在の我々と同程度の知覚、認識を得る事は不可能だ、という様に思える。
勿論神経生理学とかに詳しい訳じゃないから絶対とは言えないのだけど、なんとなくという訳でもないすよ、笑

我々の認識というのは、完全に身体に依拠している訳だ。
認識に物理的な要因は欠かせないのですよ。
幻影肢や精神盲の話とかも面白いんだけど長くなりそうなんで、
(木田元がメルロ=ポンティに言及する時に分かりやすく書いてくれるんでそちらを参照して下さい。)
図-地の話をしよう。単純に言えばある対象(図)を見ている時には必ず背景(地)があるという事。
記号論の文脈で言うとなんらかの言語の意味を把握する時には必ず言語の体系があるという事。
客観的に一個の個物を認識しているのではなくて、認識は周りのモノとの差異によって可能になる。
赤、を客観的に認識しているのではなくて、白との差異によって赤を覚知する。
オオカミという種を単体で認識しているのではなく、犬との差異によってオオカミという種の把握をする。

犬、という言葉しかない民族はオオカミと犬の区別をつける事はできないので御座います。
もっと言えば、ある種の色名健忘症の人は、色のグルーピングが正常な人の様には出来ない。

我々は差異の体系の内に生きているのであって、それなしには認識は成就しない、という事。
更に、言語の体系と認識の体系は相互に連関がある、という事。

サルトルなんかに言わせれば、この図と地は流動的なのであって、固定したものではない。
何に注視するかを変える事で、当然変動するし、その注視は前-意識的なものである事が殆どであると。
現代の認知心理学は、ある対象を注視した時間の長さ(短さ)によって、人の好みは変わるという事を立証している。
つまり人が顔を、目玉を向けて、何かに注目する事、で好みが変わる、しかもその注目は偶然的である、事だったりする。

この偶然性は身体に依拠している訳で御座います。
立体的な図-地的視座は身体に依拠している訳で御座います。
脳に電流を流した時に、一枚の絵を見ている様な。視覚の‘様な’感覚を得る事は出来ましょう。
しかしその感覚は平面的でしかありえなく、そこには好みも生まれ得ないのではないでしょうか。
(スーパーフラットの言説は日本絵画の平面性にも言及しているけど、
その日本絵画だって「立体的な視座という地」の上に成り立っている「図」で御座います。)


タイトルの「ゲシュタルト」ってのは、この様な全体的な構造の事を言うのです。
良く耳にするゲシュタルト崩壊ってのは。
例えば我々は漢字を「ここに線が二本あって…」とかって把握してるんじゃない。‘全体’を漠然と認識しているんだけど、何度も同じ漢字を見ていると個々の要素が目につく様になり、結果いつもと違った印象を受けるという様な事で御座います。
ベルクソンの哲学にゲシュタルト心理学が追加されて、メルロ=ポンティの思索につながっていく、みたいな話も御座いますが、この辺りの知覚とイメージの哲学は非常に興味深いのでもう少し研究してみようかと思います、


と、いう事です。
脳に直接電流を流す事。で、我々の身体が生み出す様な偶然性を獲得する事はできない。認識は平面的になり、嗜好は生まれず、。
現代の感覚からすれば。一般的な感覚からすれば。それは既に「人間」とは呼べないでしょう。少なくとも僕は呼びたくない。

しかし問題なのは。
偶然性すら見せかけられる可能性、は否定できない。という事。
立体的な視座すら見せかけられてしまう可能性がある、という事。
それが遠い未来の話か、我々が生きている間に起こる事なのかは分かりませんが、技術的には不可能じゃないんだろうねぇ、ありゃ、何だ。問題が戻ってきてしまった。
結局我々は。我々が世界と関係している事、を絶対的に肯定出来ないのか?

と、いう様な事を次回書こうかと思います。フーコーとかアガンベンに言及しつつ。

テーマ : 哲学/倫理学
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《連載》気づけばにわかにサイボーグ、そして再び現象学、

ワタクシの所属する大学では、「サイボーグ論ができるのはうちだけ!」みたいな標榜をしておりました、
しかし言ってみればサイボーグ論なんてのは身体論の一種です、僕は身体論がやりたかったのに
実質、「うちの身体論でできるのはサイボーグだけ!」だったのは非常に落胆した入学当初。
勿論サイボーグを問う事も必要でしょう、しかし教授が嬉々として『攻殻機動隊』について語っている様を見て、どうしたものかこの現状と思ったもので御座います。

今であればそこを熱心に問う必然性も分かろうもので。
嬉々として語って、いる様に見えたけどどうやら非常に強く問題提起をしていたみたいすね



現象学という学問に暫く惹かれております。メルロ=ポンティから入り、レヴィナス、フッサール、サルトル、ハイデガーと経由して(順序がでたらめだ!あ、と一番の主著だけです読んだのは、いやフッサールは『デカルト的省察』だけです主著じゃないかな)改めて今後の哲学の中心的なタームとして復活するだろうという目測をしております、が
そこで問題となるのは「関係論」

デカルトに代表されます自我、私、を中心とした「観念論」的在り方、
実証主義なんかも依拠する、現前している対象を精緻に考察しよう、という「自然主義」的科学の方法論
ではなくて!
どうやらどちらも問題あるぞ、という事で出てきたのが主-客の関係を問う現象学、で御座います。

前にも現象学的方法論に関する覚書に書きましたが、勿論所謂現象学者達、によっても現象学の解釈が異なります故、一義的には言えないのですが、この関係論というタームだけは通底している。
そして、我々は生きながらにして〈世界〉と関係している。〈世界〉への志向性を持っている。という事が、大前提として掲げられているので御座います。

成程、デカルトは思考している「私」は疑いえないと言った、しかし無意識の領野等も発見され、絶対的基盤であった「私」すら怪しいという話になった。
しかし、「私」の精神は間違いを犯し、絶対的なものではないけれど、どうやら何かに向かって思考している事、感情を持つ事、作用する事、等、つまり世界と関係とする事は疑いえないでしょう、という様なお話。
(ハイデガーは、その様に世界と関係している私、を《世界-内-存在》と言う。)


で。サイボーグ論とどうつながるかという事ですけどね。
我々は本当に世界と関係しているのか、という問題がサイボーグ技術の開発によって進行しているという。
良く持ち出されるのが、「水槽の脳」というお話。
まーつまり。水槽の中に脳がぷかぷか浮いていて、我々の知覚も全てその脳の生み出したバーチャルリアリティなんじゃないかというお話。仮説。イメージ的には『マトリックス』。

この思考実験が最初になされたは1982年らしいす、しかし現実化可能なんじゃないかと今なら思える程リアリティのある話です。
つまり、脳に直接電流を流して、擬似的に感覚を与えられるんじゃないだろうかとかっていう事。
既に、盲目の人に多少でも視覚情報(と我々が認識しているもの)を与える事の出来る技術は進んでいる、とかって話は有名すね。

もう少し話を軽めにすれば、例えば腕を切断してしまった人、に義手つけて、神経通して、おお何か本物の腕っぽい。という。こっちの方がサイボーグをイメージできるか。
問題になるのは、果たして私、はどこまで私、であって、どこまで世界と関係している、と言えるのかという事。
《世界-内-存在》という、先天的な構造すら疑わしいのではないか、という事。

話を極端化する為、水槽の脳を中心に話を進めます。
「世界」の定義を広げれば電極、電流だって世界だ、脳だけになっても《世界-内-存在》という前提は崩れないよ、とも言えるかもしれませんが、あまり説得力も有効性もない様に思われる。


はてさてどうしたものか。
いや、ちょっと大分長くなってしまった、しまいそうなので、次回に続く。

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プロフィール

kenken

Author:kenken
ベルクソン、フランス現象学辺りから時間/イメージ論にアプローチしております。
哲学をする、事は演劇をする事であり、演劇研究は哲学でしかあり得ないという考えの下に、両者の関係をより精緻に見ていきたいという所存で御座います。
いずれ演出、俳優業も再開したいなぁ、などと!


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http://twitter.com/kenken_sebatex

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