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演劇批評、それ自体(仮) [2.兼ベルクソニスムの一つの紹介-潜勢力/創造の源泉について]

前回の話を踏まえまして、重要な…というか何ですかねあれですね、
卒論での議論の一つの核でもあって、このブログでも言葉はちょいちょい出してきて、
自分の中ではかなりウェイトを占めているのだけど詳述した事はなかった
「潜勢力」についての話をしようと思います。


大学3年の終わりに、『アルトーという潜勢力』という文章を卒論の前段階として書きました。
前回も話に出した『現勢化するアルトー』は勿論それを承けた文章でした。
卒論ではアルトーは使わなかったのだけど、ベルクソン-ドゥルーズを論じる際に欠く事の出来ない概念として用いました。

潜勢力。
語弊はありますが、普段は認識される事のない、現働的な世界の背後に脈々と流れている力とでも言いましょうか。
ベルクソン『物質と記憶』の議論で言えば、「記憶」がそれに当たります。
我々が諸事物に相対する時、例えばほぼ無意識に接する事もあるでしょう。具体的な過去の経験を思い出して、その反省を踏まえて異なった方法で対象に向かう事もあるでしょう。恐らくその仕方は様々です。
どの程度、どの辺りの過去を圧縮して現在に生かすか。もしくは、‘殆ど’過去には依拠せず、その場その場で動物的に対応するか。
それは例えば体調や諸状況に左右されるでしょう。勿論これまでその人がどんな経験をしてきたかにも拠ると思います。
体調や状況もそれを経験している現在の次の瞬間には過去になっていますから、全ては過去の全体によって決められていると言えるでしょう。これは能動的に決定しているというよりも、偶然によって作用していると言わざるを得ません。

ここではまさに、過去の全体、記憶一般が潜勢力として働いている訳です。
潜勢力として機能している記憶の中から、「無限」から、偶然的に行為が‘現勢化’する訳で御座います。

ベルクソンの次の著作『創造的進化』では議論が飛躍的に拡張し、宇宙全体が純粋な潜勢力であるという話になります。
生物の進化は、宇宙、あるいは世界という潜勢力が現働化したものであると。まぁこちらの議論も、非常にスリリングなものでありますが、あまりコンパクトにまとめられる自信がないので割愛します。気になったら読んでみてください


さて、この潜勢力。言ってみれば創造性の源泉です。(こういう言い回しでもかなり概念を縮小化してしまっている事になりますが、まぁ演劇/批評に繋げる為なので便宜的に。)
潜勢力が、もし、(もし、)なければ。創造などという事はあり得ません。
例えば動物の事を考えてみます。彼らにも勿論記憶はあります。「条件付け」なんて実験がありました、これを見ても彼らは過去の記憶を辿って現在に生かすという事を行っていると言えるでしょう。しかしそれでも、現在に近い記憶のみを現働化させているに過ぎません。所謂「本能的な行動」です。過去に抱いた遠いイメージを想起するという事はないでしょう。あくまで現在に近い記憶だけを用いています。5年前旅行に連れて行ってもらった時の知覚はほぼ持っていないかの様に生きているでしょう。生きるのに必要ないからです。現在に近いイメージだけを有していれば、彼らには何の問題もない訳です。ここに創造性を見ることは難しいでしょう。(勿論程度の問題、とも言えるかもしれません。例えば巣を創るのはどうか。上手い事散らばっている材料を拾い集めて独自の巣を創ってしまう。まぁ少し難しいですが、「巣を創る」という行為を更に発展させる事は出来ないという点で、人間の創造性とは質が異なると言えるでしょう。反論はあり得ますが。)

幸か不幸か人間はそういう訳にはいかない。嫌な記憶でも想起せざるを得ないし、またそうでなければ他者との関係は成り立たないでしょう。そしてそれ故に、人間は創造力をも持ち合わせているのです。


創造力は必要か、これもまた難しい問題だと思います。自分ひとりで、木の実を取って食べていくだけであれば、特に必要もないと言えるでしょう。しかしここにもう一人、二人と他者が現れた際には事情が変わります。
彼らと何とか折り合いをつけていかなければなりませんし、そうすると例えば「制度」や「道具(言語等を含む)」や「概念」を創る事が必要になるでしょう。制度や道具はそれ自体で完結せず、必ず何かしらのエラーを抱える事になりますから、更にそれを無限に改変していく力が要る事になると思います。
(この事はある程度前提としてこれから語る事になりますが、100%自信を持って言える事ではりません。ここでは詳述しませんが、疑問を抱いた方はコメントでなり直接なり声をかけていただけると有難いです。)

しかし。我々はどうしたって楽に生きたい。できる事なら、他者との衝突なく、何も考えずに食べていければそれが一番良い。それ故に、なるべく考えない、考えない方へ向いていく訳です。この辺りで前回の話とつながってくるのですが、「考えないでその場を生きる」という習慣が身に付き、それを第一義に捉えると、「理論なんて要らない」という発想に近づいていく事になるでしょう。
でもそれでは社会全体は上手くいかない訳です。我々は常に創造力とその源泉を保たなければならないのです。
ここからの議論の展開は僕個人の考えになりますが、まさしく前回の話に出てきた「哲学における理論」はそれを担保するモノとして立ち現われるでしょう。
哲学の理論は、潜勢力そのものです。勿論使われ方は様々で、誤読されたり悪用されたりするでしょう。
ですが、それも現働化の一様態であって、大きく見ればやはり創造力の源泉となっているでしょう。

アルトーもまさしく、極めて強度の高い潜勢力であると言えると思います。
それ自体では殆ど何を言っているのか分からない。それでも、彼を基盤として様々な優れた演出家が登場し、作品が生まれ、あるいは哲学の議論が展開された/ている訳です。勿論、それらの作品や議論は再び潜勢力として機能していく事になるでしょう。


大体今回の主張はこんなところです。
創造力の源泉=潜勢力を確保する事。哲学もそうですが、芸術も勿論その一翼を担っていると言えます。
昔友人が「芸術がなくなったら世界は滅ぶと思う」と言っていましたが、今ではあながち間違っていないなと思います。

さてここから問題になるのは、/ベルクソン(あるいはそれを承けて議論を展開させたドゥルーズ)が問題視しているのは、この潜勢力にも程度がある、という事です。先ほど強度という言葉を使いましたが、「強度の高い≒良い?」潜勢力、「強度の低い≒悪い?」潜勢力というものが存在するだろう、という事です。
我々一人ひとりだって潜勢力それ自体であるし、勿論動物も、一応、そう。あるいはもっと言ってしまえば植物、有機物、無機物にだってあるかもしれないという話になっていくでしょう、ラディカルに考えると。
諸理論や諸作品もそれぞれ潜勢力であると言う事が出来ます。人間という潜勢力から生まれた(現勢化した)作品がまた潜勢力であり得るというのだから、程度の問題に還元せざるを得ません。
ではこの強度を上げ(下げ)ているものは何なのか、という事を突き止めなくてはなりません。

ここはまぁ今後の課題としているところで、まだハッキリした事は言えないのですが、
この連載?の中で少しでも触れられればと考えております。
とりあえず、案の定長くなってしまったので、一旦この辺で。
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テーマ : 哲学
ジャンル : 学問・文化・芸術

演劇批評、それ自体(仮) [1.導入-(哲学における)理論について]

お久しぶりで御座います、ここのところかなり呆けておりまして、
なかなかまとまった文章も書く気が起きていなかったのですが
思うところは多くありますありました故、少しずつ記していこうかと思う次第で御座います。

【あらすじ】諸々あって大学院に進学できなくなった(!?)kenkenは、お世話になっていたゼミの先生のところに相談をしにいくのであった!

そこで、理論とは、みたいな話を軽くしてもらったのです。
簡単に言えば理論とは、諸々の問題解決の為に誰もが用い得るモノであると。
成程現代の我々は、多くの場面でイデアという概念を肯定的あるいは批判的に用いて諸問題に相対する訳で御座います。もう少し言えば、イデアの概念を知っている事で見えてくる問題系もあるだろう、という事ですかね。

ベルクソンは、問いは提出されたと同時に解決されたも同然なのであって、正しい問いを提出する事が重要なのだと述べております。(そして伝統的な哲学は問いの立て方を誤っていると批判する訳です。)
恐らく、新たな理論の構築は新たな問題の発見につながり、「解決」へつながるでしょう。
資本主義を筆頭に様々な制度は混乱し、これまで成立していた多くの‘関係’が破綻し始めている現代においては、新たな理論が要るだろう、というのが先生の見解でした。カッコイイ!

また、様々なジャンルで「理論」の存在が言われますが、哲学の理論が他と違うのは、その理論が向かう対象が定まっていない、あるいは対象を定める事それ自体の理論でもあると。この思考はラディカルであらざるを得ず、(そうでなければ今までの議論の枠内でただ同じ言説を繰り返している事になりますから)後世にまで残る様な理論構築というのはかなりヤバいものであると言えるでしょう。
哲学というのは全ての学問の源流ですから、この様に哲学の極限まで練磨された議論が他の諸理論の基を定める事になる、と言えばおさまりが良いでしょうか。


で。
一般的には、こんな理論に意味なんかないと言われる訳です、
そんな事やってたって自分の、誰かの生活が良くなる訳でもないし、そんな事している暇があったら労働をなさい!と言われてしまう訳です。
だがちょっと待って欲しい。
そんなに単純な話でもない訳です、と思っています。今の、僕は。
その説明をする為にはー… いったんここで切って、次の記事で書こうかと思います その話題だけで長くなりそうだ


本当は(演劇)批評について書きたいんです、今後の、自らの方向性を確認する為にも。
昨年一つ劇評を書いたのですが、それを巡って色んな事を言われたんで。それへの応答も含めて。
が、そこへ到達するには少し長くなりそうです、まぁ、おつきあい頂けるのであれば宜しくお願い致しますといったところ。
最後までちゃんとした構想がある訳ではないので上手くいかないかもしれませんが尽力します。
とりあえず今回はこの辺で。

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プロフィール

kenken

Author:kenken
ベルクソン、フランス現象学辺りから時間/イメージ論にアプローチしております。
哲学をする、事は演劇をする事であり、演劇研究は哲学でしかあり得ないという考えの下に、両者の関係をより精緻に見ていきたいという所存で御座います。
いずれ演出、俳優業も再開したいなぁ、などと!


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