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とりあえず主体の話を一段落させよう、しかし意外と核心かもしれん

いくらでも書かなきゃならん事もあるし考えなきゃならん事もあるし読まなきゃならんものもあるんだけど、かなーり専門的になってしまうので、そして勿論答えが出るものでもないんで、そいつはとりあえず院試が終わってから、にしようかと思います。
卒論でその様な事を、まぁ書くかもしれません、分かりません、が


何度も主体、について書いてきたのですが。
結局、近代的な主体は失効している!という様なお話。でした。
神や仕事やその他諸々の「他者」によって成立する様な近代的主体は。

フーコーに言わせればそれらは「見せかけの主体」であって、そこを基準にした主体論は既に成立しない。
教育、なんてのも近代的主体を確立する大きな一因で御座います、
近代国家の確立は教育を基にして初めて可能になる訳ですし、標準語の獲得、識字率の上昇、あるいは特定の歴史観の共有とか。これらによってナショナリズムやらパトリオティズムやらは芽生えるでしょう。
(大分議論を端折りましたが良く分からなければ質問を下さい)
国家に依拠する形での主体の形成がここにはある。

しかし勿論お分かりの様に、例えば今純粋な「右翼」は、少なくとも若者には、殆どいない。
小林よしのりが批判するのはここでしょう、(彼の著作は読んだ事ないけど。)
ネトウヨに代表される様、彼らの右系の思考の大半は流れに乗じたモノであって、ここには「国家に依拠した主体形成」は見られない。「敵」がいればそれも成立しやすかったのでしょうが今ではそうもいかず。場合によっては嫌韓、みたいな形で仮想敵を構築していますが、それが強固になるはずもなく。
(いや、イメージ先行の方が強い好悪を生む、といった事は考えられますが、それは非常に脆弱であるという。事。)


教育制度を止めろという話ではないです、勿論。それだけではダメだと言っているのです。
嗚呼簡潔に自分の考えだけ置いて行こうと思ったのに、結局前置きが長くなってしまった


改めて、主体化の為に何が必要か。
key wordになる、と考えているのは時間性、と直接性、です。

時間性と言っても諸々ある訳です、例えば「伝統」
脈々と受け継がれてきた思考様式であるとかその共同体の歴史であるとか45億年かけて構築された自然であるとか宇宙であるとか。
壮大な伝統に思いを馳せる時、この…なんだか分からないけど凄い。みたいな感覚。
絶対的に自己に内化されない様な「他者」、としての時間性。

もう一つ、自己に流れていてる時間性、も想定する事が出来るでしょう。
少し話を単純化、しすぎてしまう事になるかもしれませんが、
幼い時に経験した諸々の事象。
ベルクソンを参照するまでもなく、それら‘全て’が自らの基盤となっているという事は理解されましょう。
その中でも特に輝かしいある一点の記憶、が彼の未来を大きく規定する事になったりする訳です。あるいはそれは間違っているかもしれない。それでも間違いなく一時の自分を方向付けていたものとして、何かしらの形でノスタルジーを覚えるでしょう。
ある一点、と書きましたが勿論点、ではなくて。一定の長さを持っているのであって。
さらにその「点」は他の「点」にも依拠したものでしょうから、
結局過去全体がノスタルジーの対象になる訳です。
この過去の経験、は新しい他者によってぶれが生じる様な。そういう性質のものではないので御座います。
…なんかこの辺議論の展開が弱いな、もう少し詰めてみようと思いますが、大枠はそんなところです。

(内化されない絶対的な他者、の話はバタイユ、自己の時間性、の話はハイデガー、がしております。バタイユ、ハイデガー、後はまぁブランショらを用いて共同体論を進めるナンシーの意図もようやく理解できました)


そして加えて直接性。
「神」の経験、というのはやはり本質的なものだと思うのです、
僕が使った言葉で言えばそれは「宇宙」に当たる訳ですが、
問題なのはそれが宗教、という制度に落とし込まれてしまったという事。
媒介、を通しての経験ではダメなんですよ、「理解」されてしまう様な「神」では。


僕が教えている塾では「あわ玉」というアメをご褒美にしております。
同じ中学の子を塾に紹介したらあわ玉、とか
難解な問題が解けたらあわ玉、とか?まぁ適当に諸々。

塾によっては塾内一位の成績で図書券、とかって制度もあるでしょう。
うちの塾長はそれはしたくないんだ、とおっしゃっていました。
最初は大した違いはないだろうと思っていたのです、結局モノで釣ってるじゃないかと。
しかしこの「あわ玉」、には直接性が担保されている。
生徒と先生の関係性が、「あわ玉」によって媒介される、という構図ではない。

「えー先生、今のはあわ玉もらえるレベル(の頑張り)でしょー」

「あわ玉」には感情が内在している。直接性の基となるのはこの感情、で御座います。
この関係が保てている限り問題はないんじゃないだろうか。この直接性の経験は生徒達の「輝く一点」、となるでしょう。
別に「あわ玉」だけが、という話では勿論ないのだけどね笑

ただ公教育で。三十人の生徒を前に授業なんかした日には、彼ら全員と直接的な関係を保つことは非常に難しい。
今僕は多くて十人の相手をしておりますが、それでぎりぎりだと感じている。
すると、先生はある程度制度を媒介にして生徒を統率するしかない。
それで一見「場」(この場合例えば教室)が治まったと思ってしまう。
個々の内的感情は決して治まっていない。

この様な事は恐らく諸々の教育論で語られているだろうとは思いますが、
僕も自らの経験と哲学的思索からこういう問題設定をするに至った訳で御座います。

政治あるいは国家とは、国民全員を媒介する機関で御座います。諸々制度を確立する事で日本という「場」を治めようとする。教育もそうだし、例えば福祉、や法律、とかもそうでしょう。
しかしここには問題がある。なら、
残された道は直接性を担保する機関、としての政治、国家。じゃないでしょうか。
これは単なるイデオロギーとして排斥されるでしょうか。僕はそうじゃないと…主張したいですけどね。
もう少し理論武装、言説武装する事にします。

(直接的な「神」の経験、の話はバタイユ、直接性を担保する感情、の話はハイデガー、がしております。うへぇ。)



嗚呼、十行くらいで終わらせるつもりだったんですが結局これか、
僕普段はそんなに雄弁じゃないんだけどねぇ、文章にするとどうしても長くなってしまうみたい、
とりあえずはこんなところです。
時間性、と直接性。

しかし。さて。私が勉強しているのは、一応「表象・メディア論」という事になっています。
えと、まぁそういう学部に属していて、まぁ院もそういうところを受けます。よ。

メディア?媒介じゃないか。直接性とは反するじゃないか。
後はー…例えば新しい芸術の形として「写真」とかあるじゃないか。完全に時間性を捨象した表象形態じゃないか。
とか。言われます。いや直接言われた事はないけど言われうる。でしょう。

ただまぁ事はそう単純ではないんでね、
以降、細々、表象、メディアについて書いて行こうと思います故、まぁ適当に眺めてみて下さい。
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テーマ : 哲学
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

kenken

Author:kenken
ベルクソン、フランス現象学辺りから時間/イメージ論にアプローチしております。
哲学をする、事は演劇をする事であり、演劇研究は哲学でしかあり得ないという考えの下に、両者の関係をより精緻に見ていきたいという所存で御座います。
いずれ演出、俳優業も再開したいなぁ、などと!


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