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イメージについて

シリーズ三回目、「イメージ」について、で御座います、が。
こいつぁ非常に扱いづらい。イメージという言葉は前二者に比べて、より漠然とした使われ方をされていて、捉えどころがないというか、それこそ‘イメージ’のレベルでしか語られなかったりする、から、どうしても抽象的な話にしかならず理解しづらいしされづらい。勿論前二者の問題と多分に交錯した位置にある訳ですが、個人的には一番もてあましている領域です。

恐らく大きなヒントになるのはベルクソンの哲学。ベルクソンやばい。なんつって、もう読んだのが一年前にもなるから議論の全貌を詳細に語れる訳ではないのだけど、『物質と記憶』『創造的進化』辺りは、人間の内に宇宙を見る事ができる、著作、だと思います。やばい。前者は特に読んでもらいたいなぁ。

イメージを語る際にその端緒となるのは、イメージが「自らが心に思い描いたもの」あるいは「心に思い描く事」であるという一般的言説、‘イメージ’。辞書にもそう書いてあるし間違いとは言えないのだけど、やはり留保すべきところはあるのです。
上記の様な規定のどこに問題があるかと言えば、イメージが何ものかを「表象」すると捉えてしまいやすい点。勿論今現前している光景が網膜に焼き付けられ、それを脳内で再生しているのだ、とも言い得る。あるいは、可能的な未来の事象を思い描く、イメージする。「正義」という理念があって、その構想を思い描く、イメージする。あの人は今こんな事考えているんだろーなーとかって事を思い描く、イメージする。等とも。
しかし上記の様な‘イメージ’は、ある対象がまず先に存在して、それを表象する、という様な構造を取っている訳ですが、イメージの領域はそこに留まらない訳です。と、いうより、その構造では完結しない。絶対。

同じ対象を見ているハズなのに、3年前と印象が全く異なる、という事がある。これは理解されるでしょう。何でも良いや、漫画とかを見返してみた時、そういう経験はあるでしょう。
この場合、3年の間に自らの内に変化が生じたと考えるのが普通。あるいは、体調に拠るとかって場合もあるかとは思います。
光学的な対象、つまり今目の前に広がっている光景っていうのは、単純にそれ自体として了解されている訳ではなく、自らの記憶と相まって複雑なイメージを形成している。

故、非常に不安定な訳ですよね、イメージっていうのは。しかし、基本的に人間は確固たる対象を表象したい、と思う訳です。一般的な「数学」やら「自然科学」なんてのはその極地ですね。物理的対象を普遍的なものであるとし、厳密に表象しようとする訳です。あるいは、絶対的な対象として「神」を定立し、その似姿として人間を表象する、という様な事もある。
しかし、数学は形式主義化し、あるいは「神は死んだ」。あらゆる表象は恣意的である事を宣告され、イメージは行き場を失った訳です。
正確に表象出来る対象なんてないのか。正確な表象なんて不可能なのか。だったら表象もイメージも捨ててしまえ、こういう動きが、芸術にはあった。前回も書きましたね。

>20世紀前半くらいからの演劇/舞踊の潮流で、原-身体へ回帰するのだ!みたいなものがありますが
云々。

表象が、イメージが、(あるいは言説が、と言っても良い)不可能なのであれば、物質性を強調すれば良いじゃない。身体を、あるいは絵画で言えばその画面それ自体を前景化すれば良いじゃない。という様な、ランシエールの言葉で言えば「イメージの終焉」があった。
しかしこれは勿論極端な二元論、イメージと物質を切り分けてしまう事が来ているのであって、実際はそう簡単にはいかない。上記した様にイメージは非常に複雑な構造を取っているのであって、それが全く介在しない事は不可能であるし、仮に可能だとすれば本当にただ物質の並列がなされている、という事にしかならない。

この辺りで出てくるのが、ベンヤミン、やバルトといった人たちでしょうかね。
極めて簡潔に述べれば、こういう事になりましょうか。つまり、自らの記憶に依拠した形で現前の風景を眺めている訳ですが、ふとした時にその現前の内に強烈に眼を引くものがあり、その瞬間イメージの崩壊、転換、跳躍が起こる。
その瞬間こそが力だ、という、事。

現代のネット社会周りで問題になっているのは、我々は勝手に何かしらの「イメージ」を作りあげて、それを基に曖昧な共同体形成を行う、という事です。
例えば嫌韓の風潮なんて、漠然としたイメージによるものでしかない。何となく生まれたイメージを基に、何となく言説と意識を共有しているという事でしかない。
それがこれまでのテレビ社会と大きく異なるのは、イメージの創出主体がどこにあるのか全く分からない、という事。テレビCMや番組制作においては広告代理店が強さを発揮し、ある程度イメージの先導を行っていたと言えるでしょう。
しかしネットにおいてイメージを作ったのは何か?勿論キッカケはどこかにあったのかもしれませんし、それを上手い事促している人はいるでしょうが、ある一つの機関が重要な力を持っているとは言い難い。それはむしろ「雰囲気」とでも呼んだ方が良いものでしょう。
確固たるイメージが不可能になってしまった現代において、この在り方は一つの戦略として機能しうると考える人もいるかとは思いますが、ここにはやはり大きな問題があるでしょう。
例えば「対外戦争をするべきだ!」というイメージを漠然と共有したらどうなるでしょうかね。とかって事。イメージはイメージを呼び雪だるま式に増えていくかも知れません、「本当に」戦争するべきだと思っていなくてもそういうイメージの傾向に合わせてしまうという事がありうる。(しかし、具体的な身体感覚を伴っていないので、いざ自分が徴兵された時に足がすくんで何も出来ないとかって事になるかもしれない。)
これは芸術やイメージを思想統制の手段として戦略的に用いたとされるナチズムより怖いですよ、まだヒトラーという権力の源が明確な場合であれば、その源を叩けば良い。彼を打ち負かせばイメージの画一化は行われないでしょう。
しかし、現代においてはその源が分からないからどうしようもない。大衆がこぞって間違った方向へ流れていく中、一人だけ危ないぞと叫んだところでかき消されてしまうだけなので御座います。

ここにおいて、先ほどのイメージの崩壊、転換、跳躍、というタームが生きてくるでしょう。絶対的なイメージが不可能であるという衝撃が、恐らくはこの問題に対処する事の出来る数少ない武器なのではないかなと考えております。
恐らくはそれは芸術によって可能だったりするんじゃないかとね。考えている訳で御座います。

えーとシリーズで一番長くなりました「イメージについて」、やはり上手く論じられているとは言い難いですが、最後の方は分かりやすいんじゃないかなと思います。とりあえずここで幕。



さて次回以降なんですが、私が受ける大学院の入試。
最後の論述問題で「メディア」「身体」「イメージ」というキーワードを用いて次の事について論述せよ、みたいな問題が出るみたいなんです。
それにある程度即した形で色々書いてみようかなと思っています、
いや、本番の試験と同じ条件で、一時間程度で紙に書いたものを、そのままうつす、とかって事になるかと思いますが。

あとちょっと思ったのだけど、最近「表象メディア論」とかで検索するとこのブログがヒットする様になったんですよ。もしかしたら他の受験生が、ライバルが、参考にしているか…も…?とかって危惧を笑(なんか急にヒット数増えたし)
この様な乱文がそんなに参考になるとは思えないけど、仮になったとしても、その人が受かって僕が落ちるなんて事はないと思いたい。
どうあれ万が一見ている人がいたらコメントでも頂けるとありがたいです笑
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テーマ : 表象文化論
ジャンル : 学問・文化・芸術

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No title

哲学やメディア論には浅学な私ですみませんが、お聞きしたい。神なき時代(確固たる対象物のなき時代)にイメージの原点ってのは、哲学史上では(バルトのいう)エクリチュールになったってこと?

ケンケンの構想する「見る側の異化」ってのは、エクリチュールとどう絡み合ってくるのか、気になってきた。(というか、この日記を読んで、つながった)

これが「リテラシー」とは違ったり、教養主義的なことや、近代的主体とは差異があるのだとすれば、それを聞きたいし、同じだとしたら、その手法ってのが問題にされるべきだと思ったー。

って、勝手に理解(誤解)しただけですが。

おふぅ

むしろ「原点なきイメージ」っていう感じですかね、
明確な原点が存在すると、そこを元にしたヒエラルキー体制が構築されるでしょう、
近代の主体とはそういうヒエラルキーに位置付けられる事で成立するのです。

「見る側の異化」、というか「知覚レベルでの異化」という事を考えたいのですが、
知覚、あるいはイメージをずらす事でヒエラルキーを転覆させる事が出来るのではないかという話です。

実はバルトのエクリチュール論はまともに読んでいないので大きな事は言えないのですが、
(本文でバルトの名前を出しましたが、そこでは『明るい部屋』等を書いた晩年のバルトを志向しています。)
「エクリチュール」という言葉をある文化的共同体において共有されている特殊な記号体系、くらいの意味に解するのであれば、
そういうものは大前提としてあって、「現前の煌めき」みたいなものがその体系、コードを脱していくという事だと思います。

しかし記号論、あるいはその延長線上で言うところの脱/コード、という言葉に落とし込める程単純な問題でもないので、もう少し整地しなければならないなとは考えているのですが…

No title

>ヒエラルキーを転覆
ふむふむ、そういうことだったのね。なんとなくわかりました。

確かに、「歴史」や「芸能人」に対して、ヒエラルキーはあるかもね。実際に、それでお金になるのだから。解決したい問題ではありますが、本当に解決できるのか?と疑心暗鬼になってしまいますね。僕は、「口コミ」みたいな、情報流通媒体が、強いんじゃないかと思っています。インターネットに期待、といったところ。

ちなみに、バルトの「エクリチュール」ないし「テクスト」は、ケンケンのいう「現前の煌き」と恐らく同一だよ。

うむ、

哲学的な文脈で言うと。
プラトン的ヒエラルキー体制を転覆させる、というのが20世紀以降の哲学における大きな命題となっているのです。(プラトニスムの転倒、という用語法はドゥルーズに大きく拠っていますが、脱構築、とかってタームも同じところを志向しています。)

ので、ヒエラルキーという言葉はもう少し大きな枠組みで捉えていただけると良いかなと思います。
本文でも書きましたが、人間は理性を働かせ「正しいもの」を追い、表象しようとする訳です。
この理念の大元にプラトンがいる、というのが、まぁ単純化しすぎではありますが一応の現代哲学フレームワーク、であると。

ドゥルーズが「シミュラークル」という概念を用い、(例えば神の様な)「本物」ではなく、「偽物」の価値を重視した(この解釈も単純化しすぎ、あるいは誤読しています、が)のが『差異と反復』の頃、つまり1968年。
以降日本のサブカルチャー論、あるいは表象文化論の大部分はそのシミュラークルという概念を乱用して、インターネット社会に可能性を見ようとした訳です。
ここにきて、やはり単純にインターネットも称揚出来ないだろうという見解が強くなっていますね。
これも書きましたが、インターネットが流動的なイメージを可能にするかと思いきや、実際そんな事なかった、とかって文脈で。いや他にも論点は沢山ありますが。

情報流通媒体としてのインターネットに可能性を見出そうとする、というのは、結局単純な民主主義的思考傾向にある様に思われます。「対話可能性」、みたいなね。
匿名的なコミュニケーションに果たしてどこまで負わせる事が出来るのか。
こいつぁかなり怪しいですよ、とだけとりあえず。

ああと、

最近始めたtwitterってツールは、著名人が従来のメディア権力に捉われていない(と思われる)発言を量産している、とかって意味では非常に面白いと思っております、が、
根本的な構造転換が可能かと聞かれると留保すべきところがあるのではないか、と。
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プロフィール

kenken

Author:kenken
ベルクソン、フランス現象学辺りから時間/イメージ論にアプローチしております。
哲学をする、事は演劇をする事であり、演劇研究は哲学でしかあり得ないという考えの下に、両者の関係をより精緻に見ていきたいという所存で御座います。
いずれ演出、俳優業も再開したいなぁ、などと!


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http://twitter.com/kenken_sebatex

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