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失われてしまった偶然性を再び見出す事、あるいは「可能性」について(芸術擁護の為の端緒)

記述欲、が増してきましたので、11月はコンスタントに記事を載っけようかと思います
が、卒論についてがっつり書くとがっつりになってしまいますから、エッセイという形で少し軽めに。

とは言いながらもタイトルはがっつり卒論のテーマに沿ったタームを用いています、偶然性、と可能性、です
極めて(極めて)簡略化した定式では御座いますが、今の僕の問題圏は
自由=「(サルトルが言うところの)無」=偶然性=潜在性(/可能性)=創造性なのです。

どうしてそういう定式が成り立つのかは、長い論証が要るのでまた別の機会にまわすと致しまして。
考えている事のフレームワーク、を示してみようかと思います。


可能性を開示する事。特に、子供の可能性、という事を考えてみましょうか。
よく親御さんが「子供には広い可能性を持ってもらいたい(が為に、成績を良くしてどの高校/大学にも行ける様にしたい)」といった様な旨の事を言っているのを耳にします。
成程確かにその通り。中学の時の成績如何で以降の進路が狭められ、後悔するといった例は五万と御座います。
しかし勉強勉強で義務教育を終えた子は、面白い遊びに触れる可能性を失ったとも言えるでしょう。
そんな事言ったら…何でもそうなっちゃう。無数の現実化しなかった可能性があり、その一部を選択して選択してイマノワタシガアルノデス…?なんかしっくりこない。
可能性は「あった」とか「ある」もんじゃないんだ。常に「それを現実化しうるところの能力」なんだ。(サルトル風味)
ただこの可能性という能力、物質に大きな影響を受けます。数字に全く触れなかった人が、数学者になるという能力を持つ事は「不可能」でしょう。(数字を‘操らない’事はできないでしょう(アガンベン風味))

我々は知覚を広げていかなければならない訳です。可能性という能力を最大限行使する為には、新たな知覚を得ていく必要がある。(言わずもがなベルクソン)
しかし、ここで言う知覚。ただ色んなものを見て、色んなものを経験すれば良いという訳ではないでしょう。
同じものを見ても、そこから得る情報は勿論人によって違いますし、あるいは視覚には入っていても記憶に留まることなく流れていくという場合も多々御座います。
何かが眼に止まり、それが可能性、創造性の基盤となる。この経験は極めて偶然的なものでしかない。

僕がベルクソンを好む様になったのは何故だ?ベルクソンの志向と僕のそれが一致したのはどうしてだ?
恐らくは時代の所為も御座います。演劇を経由したからという事も御座いましょう。当然哲学に興味を持たなければ出会いはありませんでした。
原因は一つではありません、無数の記憶/経験が複雑に交錯してその志向性を生みだしたのです。
ここにはなんら必然性は介在しておらず、完全に偶然的な出来事で御座います。

可能性、は偶然性に依拠しているので御座います。あるいは両者は絡み合った、更には同一のものとも言えるかもしれません。

問題なのは。
この偶然性を隠蔽してしまう事である。のではないでしょうか。
ある(不可解な)事象に対して、理解しようと試み単純な解釈を施す。そして(都合の良い様に)納得してその事象をそういうものとして受け取り、その世界を基盤にまた別の事象を解釈する。
これは自ら偶然性を排斥してしまってると言えないだろうか?
神の下に、伝統の下に、権威の下に、理性の下に、解釈するという行為を我々は常に行っている。自由、創造性というのはそこにはないだろう!それでは生の本質が失われてしまうだろう!
様々なところで統一的な解釈が求められます。単純に言えば、国語で正しい回答がある、ってのもそう。流行に乗ってファッションを選択する、というのもそう。
解釈に限らず、身体までもが画一的になっている、更にヤバいかも!と書いたのが身体についてで御座います。
僕の立場からすれば、この状況は忌避すべきものとして、ある。勿論程度の問題も御座いますがね
そして、そこを脱却する一つのアプローチとして芸術を挙げる訳です。

現代においては芸術とは多様な解釈に開かれていなければならない、と言われる事が御座います。
多様な、とはいえ解釈と言ってしまえばまだあるシステムが強固に働いておりますので、あまり良い言葉ではない様に思えますね、故、もっと言ってしまえば
芸術は多様な知覚に開かれていなければならない。無数の偶然的出会いを可能にする様な作品こそ、人間の自由の一端となる事が出来るのではないだろうか。
勿論多く問題はあります、全く意図もなく適当に創った物が、時に創造性の基盤となるのは何故か。そこに価値の基盤が生まれるのは、あるいは生まれないのは、何に依拠しているのか。この辺りはまだぼんやりとしておりますが、大体この様な事が研究テーマの一部、で御座いましょうか。

どうあれまぁ、
「くらいの事でしかない」/解釈、理解する事/
や、
改めて「主体」の話をしよう、から宇宙人の襲来まで等での主体についての議論、
の補遺にはなったんじゃないだろうかと思うのですがいかがでしょうかね。


あまり納得いかなかった人も、同調してくれた人も、
ベルクソン『創造的進化』は激しく勧めますよ笑
特に理系の人とかには読んでもらって、感想を聞きたいところ、ではある。

今日は覚悟しておりましたが、やはり例のごとく長くなってしまったのでこの辺りで終わりに致します。
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テーマ : 自由への道程
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:kenken
ベルクソン、フランス現象学辺りから時間/イメージ論にアプローチしております。
哲学をする、事は演劇をする事であり、演劇研究は哲学でしかあり得ないという考えの下に、両者の関係をより精緻に見ていきたいという所存で御座います。
いずれ演出、俳優業も再開したいなぁ、などと!


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